一般社団法人 九州地域づくり協会
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第23回 交通の要衝・筑後路に築かれた、先人達の数々の知恵と技
 今も息づく、郷土を支えた土木遺産。

九州の北部と南部、東部と西部を結ぶ筑後地域は、古くから農林漁業をはじめ、鉱工業や商業など広範囲に及ぶ産業が発達し、地域の躍進を牽引してきた。

進取の精神にあふれ、積極性と情熱、旺盛な好奇心に満ちた九州人気質を活かし、困難を恐れることなく、未知の分野にも意欲的に挑戦を続けてきた郷土の人々。

その目覚ましい成果と蓄積が、今を生きる私達の誇りでもあると言えるだろう。


洪水を防ぐ水刎と楠木

 九州自動車道「八女」ICから国道442号を南へ向かい、県道96号を東へ。八女市役所の手前を南へ折れ、矢部川に架かる中川原橋を渡った左に千間土居【1】が見える。江戸時代の元禄8年(1695)、柳河藩が築いた延長約2.3kmの堤防であり、設計・施工は同藩普請奉行の田尻親子と伝わる。水流を対岸方向に変える石造りの水刎が残り、今も健在。この堤防に植えられた楠木水防林【1】は、下流の船小屋温泉の中ノ島公園まで約6kmも続いている。同公園には約1,300本もの楠木が茂り、一帯は「新船小屋のクスノキ林」として国の天然記念物に指定されている。

 船小屋温泉から福岡県南端の大牟田市へ。同市東部、県道5号が三池新町交差点で出会う県道93号は、かつて「三池往還」と呼ばれた街道。熊本県内で「豊前街道」から分岐し、国境を越えて三池に入り、柳河を経て長崎にまで通じていた。この道を南に進むと、堂面川の上流側に三池陣屋橋【2】が現れる。柳河藩の支藩であった三池藩の、かつての陣屋前に架けられたため、今もこの名前で呼ばれている。

 この一連アーチの石造橋は全長11.5m、幅4.3m。築造は江戸時代の嘉永年間(1851年以降)とされる。アーチを形成する輪石に密着させて切石をめぐらせ、石橋の荷重を各輪石に均等に分散させるという珍しい工法である。石材は阿蘇溶結凝灰岩であり、同市東南部の櫟野地方で切り出された「櫟野石」が使われ、今も人や車が行き交う現役の橋であり、地域の多くの人に深く愛されている。

【1】楠木水防林・千間土居

くすのきすいぼうりん・せんげんどい

【1】水刎 みずはね

【2】三池陣屋橋

   みいけじんやばし

日本最古の石造水道橋

 県道93号をさらに南へ進み、櫟野交差点で県道3号に曲がる。青葉町の先、右側にある慈恩院の裏手、早鐘眼鏡橋【3】が大牟田川に架かる。江戸時代の初期、三池藩は用水不足を補うため、同川の上流に当時としては筑後最大のため池「早鐘池」を築造。同川左岸と諏訪川右岸を灌漑するため、延宝2年(1674)、日本で初めての一連アーチの石造水道橋を架橋した。谷を越えて用水を確実に流すため、アーチの高さ・形状に工夫を凝らした優美な石橋は、土木資料としての価値も高く評価され、国の重要文化財に指定されている。この石材も三池陣屋橋と同じく櫟野石なのは、もちろんのことである。

 わが国の眼鏡橋は中国僧・黙子如定が寛永11年(1634)に長崎で築造したのが最初とされている。この新しい眼鏡橋の築造技術をいち早く三池藩が導入したことは、同藩の産業開発への熱意とともに、土木技術の水準の高さを示すものと言えるだろう。

 さきほどの櫟野交差点から県道124号を南へ走ると、熊本県荒尾市に入り、関川を渡る。その下流側の河川敷に櫟野石で造られた岩本橋【4】が端麗な姿を見せる。江戸時代末期の文久3年(1863)、三池往還の筑後と肥後の国境に架けられた二連アーチの石造橋は全長32.7m。堂々とした印象の眼鏡橋は、名石工として知られた橋本勘五郎が手掛けたもの、と伝えられている。

【3】早鐘眼鏡橋 はやがねめがねばし

【4】岩本橋 いわもとばし

百年後を見据えた構想

 有明海沿岸道路の南端、「三池港IC」から県道736号を北へ進むと、左側に広大な三池港【5】が開ける。明治41年(1908)の開港当時の姿を伝える現役の港湾施設であり、日本の近代化に貢献した産業革命遺産として、平成27年(2015)に世界文化遺産に登録されている。三池炭鉱で採掘された石炭を国内外に搬出するため、干満の差の大きな有明海沿岸に大型船が常時着岸できる港湾が必要とされた。築港工事を指揮した團琢磨は世界中の港湾を視察し、入念に設計。干潮時でもドッグ内の水位を維持するため、観音開きの扉である港口閘門【5】を設け、両側には船舶通過時の潮流を緩和するための補助水堰【5】を整備した。炭鉱の発展に尽力した團は「石炭山は永久などということはありはせぬ。築港をやれば、そこにまた産業を興すことができる。築港をしておけば、いくらか百年の基礎になる」と確信していたのである。

 同じく有明海沿岸道路の「黒崎IC」の出口、そのすぐ左手に矩手水門(苦楽橋)【6】がある。黒崎開と永治開という干拓地の排水用樋門が、明治32年(1899)に統合修復されたもの。現在、樋門は残っていないが、両岸の壁の倒壊を防ぐために築かれた赤煉瓦造りの半円形の眼鏡橋・苦楽橋が美しい景観を見せており、両側に伸びる干拓堤防は県の指定史跡となっている。

 九州自動車道「南関IC」から県道10号を西へ進むと、四箇交差点の角に「道の駅おおむた」がある。1階には地域の農産物・海産物、フードコート、2階には多目的空間が整備されている。

 

 

 

【5】三池港 みいけこう

【5】港口閘門 こうこうこうもん

【5】補助水堰 ほじょすいぜき

 

【6】矩手水門(苦楽橋) かなてすいもん(くらくはし)

 

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