第6回 北九州市エリア-その① 近代日本を築いた技術の証
近代日本の産業発展を支えたエネルギー資源は、 筑豊炭田から掘り出される豊富で良質な石炭だった。 その集積地の利を生かして栄えてきた北九州地区には、 欧米諸国に負けない豊かな国を築こうとする日本の、 明治、大正、昭和にわたる足跡が各地に刻まれている。 点在するその道標を2回に分けて紹介してみよう。 |
立ち遅れた橋梁技術を産学官の協力で克服
北九州市の沖、響灘から切れ込む洞海湾は幅数百m、奥行き10km。その沿岸部の八幡に官営八幡製鐵所(現新日本製鐵)が操業したのは、明治34年のこと。これを契機に周辺は工業地帯として発展し、対岸の若松港は筑豊炭田から産出される石炭の積出港として活況を迎える。一帯は近代港湾として整備され、明治25年築造の素朴な「若松港石垣岸壁」や、大正7年建造の「旧古河鉱業若松支店」が残り、当時の繁栄ぶりを今に伝えている。
洞海湾口の若松―戸畑間の行き来は、明治20年代から運航された若戸渡船に頼っていたが、昭和5年の沈没事故で73名が死亡。この惨事をきっかけに海底トンネルが計画されたが、第二次世界大戦のため中止された。
やがて戦後の昭和27年、両岸を結ぶ橋梁案が浮上し、30年から現地調査がはじまる。日本では長大橋梁の建設経験が少なく、当時の技術レベルは欧米諸国に大きく立ち遅れていたという。そこで、工法調査から資材試験、風洞実験まで産学官が協力し、設計・建設の基礎データを徹底収集。ようやく33年に「若戸大橋」着工。橋長680m(最大支間367m)、橋塔高85m、桁下40m。国内初の長大吊り橋は、すべての資材を国内で調達し、37年に完成。当時、“東洋一の夢の吊り橋”として国内外の注目を集めた。
世界初の工法開発が後の技術基盤となる
本州と九州を隔てる関門海峡はS字に屈曲し、その幅は狭い所で600mほど。東西の潮流は時速約18kmと速く、わが国有数の海の難所であり、まさに運輸上の“関門”となってきた。
この海峡をまたぐ「関門橋」が、約5年の工期を経て48年に竣工。橋長1,068m(最大支間712m)、橋塔高133.8m。桁下は大型船舶の航行が可能な61m。若戸大橋架設の11年後に規模、支間長は一挙に倍増。東洋一の吊り橋となった。
吊り橋では橋桁の荷重を支えるケーブルが要となる。関門橋のケーブル架設では当初、鋼線を数本ずつ架け渡す工法が想定されていたが、力学的有利性から、複数の鋼線を工場で六角成形したパラレルワイヤ(平行線ケーブル)ストランドを使う工法に変更された。これは日本ではじめて採用された新工法であった。桁工事では耐風性と施工性に優れた3径間2ヒンジの補鋼トラスを採用し、逐次連結して架設するなど、世界でも類例を見ない工法を開発。こうした経験が、後に続く本州四国連絡橋などの技術基盤となっていくのである。
若戸大橋の戸畑側から南に向かうと、明治末築造の瀟洒な館「旧松本邸」がある。さらに南には標高622mの皿倉山。ケーブルカーとリフトで登れる山頂からは、若戸、関門の二橋を一望でき、華麗な夜景パノラマも楽しめる。一帯は「帆柱自然公園」として整備され、市民の憩い場となっている。
ダム湖周辺にひろがる近代技術の野外展示場
皿倉山の南麓を流れる板櫃川には、河内貯水池がひろがる。この貯水池は、官営八幡製鐵所が工場用水の確保のために建造したダム湖である。貯水量700万tは昭和2年の竣工当時、東洋最大の規模を誇った。
川をせき止める「河内堰堤」は高さ44.1m、延長189mの重力式含石コンクリート造り。6箇所に設けられた伸縮継手には漏水防止の銅板が埋め込まれており、今も水漏れはなく、現役のダムとして稼動している。前後に多様な石積みが施された堤体は、古城のような風格と陰影が漂う堂々たる姿。そのすぐ下流側では石造りの「弁室」や、RC床版アーチの「太鼓橋」も見られる。
さらに貯水池周辺は近代土木遺産の宝庫である。RC造りカンチレバーアーチの「北河内橋」や、3連アーチ型自然石積みの「中河内橋」は、小型ながらも素朴な味わい。
鋼製の二連レンティキュラー・トラスの「南河内橋」は、いつまでも見飽きない美しさである。また近くには河内温泉「あじさいの湯」や「九州民芸村」があり、多彩に楽しめる。
次号では「関門国道トンネル」の建設にまつわるエピソードを紹介する。