一般社団法人 九州地域づくり協会
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第7回 北九州市エリア-その② 逆境を乗り越えた海底トンネル

近代国家の建設を技術で担ってきた北九州地区。
関門海峡の両岸を結ぶ世界初の海底道路トンネルは、
半世紀を超えた今も、地域の産業と生活を支えている。
 
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断層破砕帯にはばまれトンネル掘り下げを決断

 7-kanmonkyo2 本州と九州を隔てる関門海峡は、古くから海の難所であり、海峡を結ぶ輸送路の確立は、近代日本の悲願といえるものであった。両岸まで整備されていた鉄道路線の連結は、明治44年から計画され、トンネル案、橋梁案などが検討されていた。やがて施工費や国防上の観点からトンネル案が採用され、昭和11年に着工。戦時中の17年、関門鉄道トンネルが開通する。
 一方、海峡を結ぶ道路も昭和初期から計画され、鉄道と同じくトンネル案に決定。海峡で最も狭い早鞆瀬戸(はやとものせと)の海底をくぐる関門国道トンネルは、昭和14年に着工を迎えた。だが、時代は国を挙げて戦時体制に突入。軍工事扱いであった鉄道トンネルに労力、資機材が注がれ、国道トンネルは微小の予算で着手するしかない情勢であった。早速、本工事に備えて電源・機械の仮設備、庁舎・宿舎の建設などが進められ、同時に工事7-kanmonkyo3計画が綿密に検討された。その結果、思わぬ難題に直面した。
 事前に試掘した調査坑によって、下関側の約150mに断層破砕帯の軟弱層があり、門司側の最深部に小規模断層のあることが判明。難工事となることが予想されたのだ。そこで熟慮の末、トンネル天端の土被りを厚くするため、当初の計画よりトンネルを8m深く掘り下げることが決断された。この変更でトンネル長は400mも延長。労力も資材も不足の折、前途多難が予想されるスタートとなった。
 さらに原案では、下関側の道路をトンネル内で分岐させ、海岸線に坑口を設ける構想だったが、交通事故・渋滞の発生が懸念されていた。そこに17年の夏、台風が来襲し、下関側の海岸道路が寸断された。これを機に坑口は内陸側に移動され、今に受け継がれている。こうした変更が後の工事を円滑に進める要因となり、さらには交通路としての安全性に繋がっていくのである。

 

 


水没の危機を前にGHQと対峙した人々

 いよいよ本工事に着手した16年には、両岸から海底部の頂設導坑の掘削を開始。特に下関側では約135mの断層破砕帯にセメントを注入しながら、1年余をかけて突破。戦時下の17年の春、見事に貫通した。続いて陸上部の底設導坑を掘進。戦況が逼迫し、すべてが欠乏するなか、19年末、ようやく全線導坑の貫通を果たした。この間、4本の立坑掘削も同時に進められたが、20年の夏、2度の空襲で両岸の工事施設を焼失し、終戦を迎えたのである。
 戦後、物資不足と物価急騰で工事が停滞するなかで、21年の秋、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)らの情報として「工事中止・トンネル水没」が伝えられた。これを阻止するため、関門国道労働組合と関門国道従業員組合は共闘を組み、政労市民に働きかけて約22万人もの署名を集めた。また関門両市は地元の県市町村に呼びかけ、建設促進同盟を結成。ともにGHQや政府への請願活動に奔走した。これが奏功して翌年の秋、「最低限の維持に限定する」という総司令官マッカーサーの指令が出され、水没だけは免れたかに見えた。
 その後、海底部車道を完成させ、両海岸の立坑エレベーターを利用して車両通行を実現する“海峡案”が浮上。積極的維持と称して、現場では密かに海底部の頂設導坑を切り拡げていた。しかし、25年にGHQから「維持工事が年間1億円も要するのは不経済であり、再開の日まで水没すべきだ」と強く警告され、予算も大幅削減された。それでも掘削を止めなかった現場の人々。その合言葉は「1cmでも先へ」だったという。

 


新工法を積極導入して日本の技術発展に寄与

 26年に締結された日米講和条約の発効を受け、翌27年の春、本格工事が再開された。ここまでの工事進捗率を掘削量で表わすとトンネル23.3%、立坑34.5%である。この後、掘削は各工区で急速に進み、7-kanmonkyo429年の春には最難関の海底部断層破砕帯区間を突破。ここでは日本初の鋼製アーチ支保工が使われた。さらにトンネル全線と立坑の掘削・覆工をはじめ、各工事は順調に進捗。ルーフシールド工法やコンクリート・プレーサー、移動式鋼製型枠など、日本初の新工法を意欲的に導入し、換気装置では軸流式自動可変ピッチ・プロペラファンをオリジナル開発するなど、日本の道路トンネル技術の発展に大きく貢献した。
 そして33年の春、調査坑試掘から実に21年間、幾多の苦難を乗り越え、関門道路トンネルは開通を迎えた。延長3,461m(海底部780m)、最深部車道面標高-55.86m、車道幅員7.5m、人道全長780m。工事従事者は延べ467万人を数えた。門司人道入口の上にある丘に、殉職または病没された94柱を祀る慰霊碑が建ち、世界初の海底道路トンネルが通る海峡を、今も静かに見守っている。7-kanmonkyo5

 

 

 

 

 


 この丘の南側、海岸沿いに人気の門司港レトロ地区がある。九州の鉄道の起点であったJR門司港駅をはじめ、煉瓦造りのビルや倉庫が、大陸貿易で栄えた港町の面影を伝えている。

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