一般社団法人 九州地域づくり協会
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第8回 橋のミュージアム・長崎

長崎は「橋梁のミュージアム」と呼ばれる。長崎市内・中島川に架かる石橋群。
江戸初期(寛永11年)中国人石工によって作られた2連の眼鏡橋を中心に美しい
アーチ橋が並ぶ。「くろがね橋」―鉄の橋も長崎が元祖だ。そして現代。戦後・
橋梁技術の原点と言われる「西海橋」をはじめ、海を渡る長大橋群が空の青、 
海と島々の自然景観に溶け込んで息をのむ風景を創り出している。

 

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橋の美しさの創造

 8-2 長崎市の石橋群を楽しんだ後「長崎の長大橋」巡りに出発しよう。ルートは九州風景街道「長崎サンセット・ロード」。市内から野母崎に向かって車を走らせると、眼前に真白な女神大橋が現れる。ケーブルが織りなす繊細な斜張橋だ。「女神」の名にふさわしく、美しさと存在感があり、今や、観光長崎のランドマーク、シンボルと言ってよいだろう。橋の下、長崎湾を大きな外国客船がゆっくり港を離れて航跡を引き、白波が青い海面に模様を描いてゆく。漁船、貨物船、タンカー、離島連絡船、ヨット。橋上からは船のパレードを毎日見ることが出来る。
 夜はライトアップされ、「女神」の表情は一変する。まるで巨大なクリスマスツリー。長崎の夜景は有名だが夜の女神大橋の登場で美しさを倍加させた。
 女神大橋を渡るとキリスト教徒への弾圧と人間の苦しみを描いた小説「沈黙」など遠藤周作の記念館がある外海(長崎市)に向かう。長崎新港を過ぎるとやがて赤、白、青の3つの橋がわ現れる。辺境のキリシタンに救いの手を差し述べたゾロ神父の母国・フランスの3色旗をイメージしている、という。
 遠藤周作記念館の展望テラスから180度広がる海を眺める。潮目が描く模様、何を漁しているのか、小さな漁船が群れている。東シナ海に沈む夕陽は赤く、大きく、地球いや宇宙の造形美を思わせる。
 左に海を見ながら北上、西海市に入る。ここには大島大橋の白く、高い橋塔が「島の門」のように迎えてくれる。呼子の瀬戸をまたぐこの橋は大島さらに崎戸島へとつなぐ。かつて捕鯨の島として栄え、さらに炭鉱、造船が島を繁栄させた時代もあった。しかし、その後の炭鉱閉山、造船不況、そして高度経済成長下の人口流失、と苦難の歴史が続く。
8-3 海を渡り島が本土につながる事を島民は熱望した。渡海橋は「離島苦」からの脱出を意味していた。しかし、架橋には巨額の投資が必要になる。話は簡単ではない。
 長崎県は人が住む島を多く抱える全国一の離島県だ。昭和40年には有人島100、人口40万だったのが、20年後には人口は半分になり、なお減り続けている。県が全国に先駆けて「離島振興」を旗印に架橋運動に取り組んだのは当然のことだった。政府、国会など関係機関への県民挙げての陳情、要請活動が繰り返された。

 


海を渡る長崎の長大橋群

8-4 長崎の長大橋のパイオニアは「西海橋」(完成昭和30年)である。建設省の直轄事業として橋梁技術者のエリートが送り込まれた。村上永一(工事事務所長)、吉田巌ら後に世界一の巨大橋「本四架橋」を手掛ける技術者チームであった。コンピュータもなく、計算尺による「手計算」で設計が進められた。吉田は東大工学部土木学科卒。国鉄に決まっていたが、彼の力を見込んだ建設省は「有無を言わせず」入省させ、直ちに西海橋の現場に送り出した。現場事務所に着いた吉田はそこに広げられた設計図を見て、即座に誤りを指摘したという。神話に近い実話である。施工段階になると、吉田はメーカーまで行き工事用図面まで引いた。

 


技術と景観の調和

 西海橋は着工から60年、竣工から55年。しかし「主構造は現在でも大丈夫」という。加えて、その構造とデザインにおいて、群を抜いている。「機能美というか、非常にバランスが良くぞくぞくするほど美しい」(有吉正敏同県央振興局道路建設二課長)。8-5
 西海橋の交通量が増え、新西海橋が計画された(竣工平成3年)。新西海橋の景観を担当した篠原修東大教授は「(西海橋の)この赤い色、繊細に鉄材で組まれたレースのような模様、あまりに繊細で見ようによっては少女のように弱弱しく見える橋」(著書「土木造形家・百年の仕事」)と表現している。その美しさを殺さないため、新西海橋は「西海橋の脇に控えめに」作られた。クレーンで、塗装した鉄材を吊り上げ、「色合わせ」まで行っている。
 日本土木学会が選ぶ「田中賞」は橋梁の最高賞だが、長崎県が西海橋のあと県単独で架橋した長大橋が田中賞を獲得して行く。長崎の「橋の美意識」のルーツは西海橋にあると言って過言ではないだろう。

 


長崎の設計思想

 西海橋の後、長崎県は平戸大橋の建設を国に要望した。
 しかし、離島を多く抱える広島、鹿児島県と競合、建設省から「長崎県は自力で架橋に取り組め」と言い渡される。それからの長崎県の橋梁技術者たちの悪戦苦闘、技術習得への熱意、チャレンジ精神には驚かされる。
 土木研究所に7カ月泊まり込みで研修、世界の橋の設計図を読みあさったという。平戸大橋が自力で完成したのは、西海橋から22年後のことである。技術諮問委員会に幾度も幾度も突き返されながら、出来るだけ工事費を抑え、しかも美しい橋を作りたい。技術者の情熱が「幾重にも重なる技術の難所」を乗り超えさせた。
 平戸大橋(吊り橋)、生月大橋(トラス橋)、大島大橋(斜張橋)、女神大橋(同)、肥前鷹島大橋(同)、新西海橋(アーチ橋)。そして伊王島大橋が今完成を急いでいる。
 海峡という難所に堅ろうな構造物を渡す技術力、それを自然に溶け込ませ美しい景観を創り出す造形力。橋それぞれに、長崎の橋梁技術者の二つの力と情熱が込められている。(敬称略)

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