八代市 所在地・完成年等 施設の形式・諸元 ●所在地:八代市古麓町~豊原上町 球磨川 ●完成年:1620年頃(元和年間) ●設計者:加藤清正 1755年復旧:八代郡目付 稲津弥右衛門 ●施工者:加藤清正 1755年復旧:八代郡目付 稲津弥右衛門 ●管理者:八代平野土地改良区連合 ●文化財指定等: 萩原堤防:土堰堤 ●延長:約1,000m ●天端幅:約13m ●基礎幅:約45m ●水面からの高さ:約9m 遥拝堰:石堰 ●幅:約800m ●中央開口部:約40m 遺産の説明(社会的背景・歴史的・文化的価値など) 八代城主加藤右馬允正方は、元和5(1619)年から2年半を費やして八代城を築城しましたが、球磨川の八代平野部の堤防・堰は、それと時期を同じくして加藤清正が築造したものと伝えられ、治水・かんがいの大事業を行っています。 堤防は、遥拝堰の取付部、古麓町の山際から城北の松浜軒にいたる延長6,190mの大土堤で、八代城下を洪水から防御するために築かれたもので、堤防に松を植えさせたので松塘とも呼ばれています。 このうち水衝部にあたる現在の新萩原橋付近から上流は、特に萩原堤と呼ばれ、7ヶ所の強固な不透過水制「はね」を備えた半環状の大塘です。巧妙な水はね水制は、石張りの強固なもので、それぞれ堤脚取付部の角度を少しずつ変え、洪水時の激流をいずれも流心部へ跳ね返すよう工夫されています。 萩原堤は、宝暦5(1755)年の大洪水で10町余(約1km)にわたり破堤しましたが、八代郡目付の稲津弥右衛門が陣頭指揮をとって復旧し、天端幅約13m、基礎幅約45m、水面からの高さ約9mの堤防に改修しました。人々は「あのや稲津様は仏か神か死ぬる命を助けたも」と歌い、弥右衛門の功績を称えました。 現在は、直轄河川改修により裏腹付け、川表護岸が施工され、八代市を守る堤防として重要な役割を果たしています。 また、球磨川が山間部から八代平野に出るところ(古麓町の山際)に築造された遥拝堰は、 48瀬のしんがりと唄われ、平安・鎌倉時代の木の杭による杭瀬からの長い歴史を有しています。清正はこれを大きな自然石や割石を使って、強固な石堰にしました。川の流れが早いので、両岸から上流に向かって斜めに大石を置き、中央は開けていました。その石積みの長さは、両岸合わせて約800メートルにも及び、中央部は約40メートル程開いていました。平面的に みると、上流に向かって八の字形をしていました。ここからこの堰を「八の字堰」又は地名をとって 「遥拝堰」といっています。中央部が開けてあるのは洪水時に水が流れやすくすると共に、平常時には舟や筏が通れるようにしたためです。また、川底から積み上げられた石堰の両川岸には、流れ込んだ水流を引いてかんがいの水路とし、広大な農地を潤しました。 現在の堰は、昭和48年にコンクリート堰に改修されたもので、形状は変わっており、かっての遺構を見ることはできません。 交通アクセス 九州自動車道八代ICから南へ車で10分から20分 Googleマップへリンク(萩原堤防) Googleマップへリンク(遥拝堰) ※当情報は位置情報のみです。施設へのアクセスが危険な箇所もありますので安全性を確認して下さい。