徳川幕府が九州の諸大名を監視した天領日田には、西国筋郡代が置かれ、九州の政治や経済、文化の情報がすべてこの地に集められていました。そして、これらの中の重要な情報を江戸に伝えるため、日田から中津方面に通じる中津街道(豊前街道)が開かれて、その一部に石坂石畳道が作られています。
この道は、市ノ瀬から伏木峠(ふしきとうげ)の間の急坂に開かれた石畳の道で、全部で16ヶ所の曲折をつけながら、1,260mの距離を上がっており、幅2.2mの道幅の中央部分には堅い切石を敷き、その左右には山の自然石を敷いて、坂道の長期的な使用に耐える工夫と山道の美しさを作り出しています。勾配は7度から10度で、急な所は牛馬の歩行に配慮しており、2,3歩進んでは1段上がるような緩い段差をつけるなどの工夫がされています。
道路完成の翌年には、広瀬淡窓が石坂改修の由来を漢文で撰し、記念碑が建てられています。これが国道のすぐ上にある「石坂修治碑」です。 |