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FUKUOKA 14

関門国道トンネル

下関市椋野町―北九州市門司区東門司

海の底で越える県境
九州と本州を繋ぐ3,461mの海底トンネル

最も狭い早鞆の瀬戸の海底へ
そして戦争へと

関門国道トンネルは、関門海峡で隔てられた本州と九州をつなぐ交通路として、渡船、関門鉄道トンネルについで、3 番目の道路トンネルとして昭和33 年(1958)に供用されました。海の底、徒歩で県境を越える、人道トンネルも併設されています。
鉄道トンネルは明治44 年(1911)にすでに鉄道院総裁・後藤新平の命により調査が開始され、昭和初期頃から橋梁案や道路併設案、船舶輸送案などの検討もなされていました。戦時下で機雷攻撃の影響を受けにくい世界初の海底トンネル案に決定し、昭和11 年(1936)に着工。戦時体制下の突貫工事で 昭和19 年(1944)に関門鉄道トンネルが開業します。道路に関しては、内務省土木局によって、昭和7 年(1932)から3ヵ年にわたってトンネル・橋梁の調査が行われましたが鉄道と同じトンネル案となり、最狭部の早鞆の瀬戸に、昭和14 年度より10ヵ年計画で工事に着手します。この時の調査は、後の関門橋の架橋へと繋がりました。

八幡側のルネッサンス風ポータル

物資も人もない至難の工事
戦後の水没案を乗り越えて

昭和16 年(1941)12 月8 日、日本はハワイ真珠湾を攻撃し、アメリカ・イギリスに宣戦布告します。翌年5 月には海底部頂設導坑が貫通しましたが、工事は著しい資材不足に陥り、人員の確保も至難という戦況下での工事でした。
さらに終戦後の混乱期はインフレの進行も凄まじく、坑内の現状維持が精一杯という状況に陥り、昭和20 年(1945)の終戦直前にはついに工事中止に追い込まれました。さらに昭和25 年(1950)にはGHQより「維持工事が年間1 億円も要するのは不経済であり、再開の日まで水没すべきだ」という意見も出る中、2 年後の本格的工事再開を経て、昭和33 年(1958)3 月、遂に完成します。完成前の昭和31 年(1956)7 月、日本政府は経済白書で「もはや戦後ではない」と宣言。戦後復興のトンネルを抜け、時代は高度経済成長の好景気に沸いていました。
海峡をはさんだ両岸に調査立坑をおろしてから実に21 年、総工費51 億円余、55 名の尊い命を犠牲にした歴史的な開通でした。この犠牲者の慰霊碑は、現在、門司人道口の関門海峡を一望できる小高い所に設置されています。

車道と人道トンネルの工事風景(昭和 30 年 11 月撮影)/毎日新聞社

DATA

所在地/下関市椋野町―北九州市門司区東門司 1

完成年/昭和 14 年(1939)着工 昭和 33 年(1958)供用

設計者/内務省土木局、関門ずい道専門協議会

施工者/熊谷組、大林組、間組、西松建設、他

管理者/西日本高速道路株式会社

<施設の形式・諸元>

アスファルトコンクリート舗装

延長/ 3461.4m(海底部 780m)

最深部車道面標高/ 55.86m

車道幅員/ 7.5m(2 車線) 有効高/ 4.53m

【人道】

全長/ 780m 幅員/ 4m