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FUKUOKA 18

金辺トンネル

福岡県北九州市小倉南区~田川郡

「絶山嶺横」の扁額
2 つの違う断面に潜む物語

国内最長の複線トンネルへの挑戦
戦争による資金難と経営破綻

金辺(きべ)鉄道は、現在の北九州市と大分県日田市を結ぶ日田彦山線(城野-夜明)の北部分を私鉄として建設された鉄道軌道です。筑豊・豊州両鉄道の路線外にある炭坑の運炭を目的に、明治27 年(1894)に 敷設計画が持ち上がり、翌年、 東京在住の渋田見興衛(旧小倉藩家老)他 、14 人が発起人となり創設されました。金辺鉄道開通のための最大の難工事が、明治30 年(1897)に着工された、金辺峠を貫くトンネル開削工事でした。
当時、香春町までは複線として計画され、トンネルや鉄橋の橋脚はあらかじめ複線サイズで設計され、呼野側で採用された断面は、小倉鉄道乙式と呼ばれる扁平三心円という独特なものでした。全長1,444m、金辺トンネルは着工時における複線のトンネルとしては、わが国最長の規模でした。しかし、想像を超える難工事の連続と日清戦争による資金難が重なり、明治33 年(1900)に工事は中止せざるを得なくなり、明治36 年(1903) には期限切れで免許が失効し会社は解散へと追い込まれます。

採銅所側は馬蹄形の単線用断面

出願から20 年後の開業
筑豊と港を結ぶ 4 鉄道の運炭網

その年、その負債と敷設権を引き継ぐかたちで、関東地方の鉄道に次々と出資を行っていた京浜の豪商、岩田作兵衛ら6 名の発起により小倉鉄道が創立します。金辺鉄道の実質的敷設権を継承し、明治45 年(1912)12 月、ついに放置されていた金辺トンネルの工事に着手しました。
逆の採銅所側より掘り進み、大正3 年(1914)10 月、遂に金辺トンネルが貫通し、翌年に完成、東小倉-上添田(現・添田)間、単線として39.4km が開業。採銅所側は、小倉鉄道甲式の馬蹄形の断面に改められたことで、異なる断面をもつ珍しいトンネルとなりました。前身の金辺鉄道の出願から20年、採銅所口の「絶山嶺横(ぜつざんれいおう)」の扁額は、初代社長牟田口元学(佐賀藩士、後に東京馬車鉄道社長)の喜びを表したものと言われています。
筑豊全郡の石炭を門司港に輸送する九州鉄道、遠賀 ・鞍手 ・嘉穂の石炭を若松港に輸送する筑豊興業鉄道、嘉穂郡 ・田川郡の石炭を宇島 ・門司港 に輸送する豊州鉄道に、田川 ・嘉穂郡の石炭を小倉港に輸送する小倉鉄道が加わり、筑豊炭田と各港湾とを結ぶ積出網が整備されました。
小倉鉄道は、北九州の近代化を担い、国有化に伴って一時期、添田線(第一次)に姿を変えたものの、今もJR 日田彦山線の一区間として生き続けています。

DATA

所在地/北九州市小倉南区と田川郡の峠

JR日田彦山線

完成年/大正 4 年(1915)

管理者/ JR 九州

<施設の形式・諸元>

煉瓦トンネル(石ポータル、複線断面(呼野方のみ)

延長/ 1,444m