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FUKUOKA 26

秋月目鏡橋

朝倉市秋月(野鳥川)市道

崩れ落ちながらも再び
藩主悲願の石橋

長崎の石橋への憧憬
完成目前で響いた轟音

古処山から流れ出る野鳥川との合流点近く、秋月城下町に架かる優雅な橋が秋月眼鏡橋です。
野鳥川に架かる木橋の本寿院橋は人馬の往来も多い秋月街道の要所でした。流されたり、腐ったりとその維持費に頭を痛めていた8 代秋月藩主長舒(ながのぶ)は、福岡黒田藩の代わりに命じられた長崎警備役の折、石橋群をはじめて見てその頑丈さに驚きます。思い描けど、石橋の建設には莫大な資金が必要なため見合わせていましたが、文化2 年(1805)、なんとしても石橋の実現が望まれ、家老宮崎織部の進言もあり長崎の石工を雇い入れ、ついに目鏡橋架橋に踏み切りました。
しかし、文化4 年(1807)、2 年を費やした石橋は、完成を目前に轟音とともに崩壊。苦しい財政の中から無理算段した架橋工事すべてが水泡となった衝撃は、病床にあった長舒を直撃し43 歳でこの世を去ります。

御影石の石積み

御影石へ挑んだ石工たち
川床に残る防災の叡智の石畳

工事差し止めの声があがりましたが、長崎石工たちの工事再開の嘆願、そして宮崎織部の強い意志もあって、再び石橋建設が民の間にも高まり着工されたのは、2 年後の文化6 年(1809)の秋でした。そして、文化7 年(1810)ようやく完成したこの目鏡橋は、当初「長崎橋」とも呼ばれました。全国でも珍しい堅固な花崗岩(御影石)を緻密に積み上げたオランダ風アーチ橋であり、両側が階段式になっていた(昭和に入って車を通すためコンクリートで舗装)全国唯一の石橋です。川床に敷き詰められた風情ある石畳は、洪水時に橋を護る役割を担っています。

秋月街道の要所
歴代藩主たちが渡った橋

完成時の渡り初め式には9 代藩主黒田長韶(ながつぐ)や藩の重臣たちも出席し、大変な賑わいであったといいます。崩壊の苦難の後、一度も崩れることなく200 年以上の時を刻む秋月目鏡橋。この橋を渡ると、黒田五十二万石の支藩として栄えた、筑前の小京都といわれる秋月藩五万石の城下町の町並みが続いています。

河川敷より

DATA

所在地/朝倉市秋月(野鳥川)市道

完成年/文化 7 年(1810)

施工者/秋月藩 宮崎織部、江崎半右衛門

管理者/朝倉市

文化財指定等/福岡県指定有形文化財(建造物)

<施設の形式・諸元>

石造アーチ

橋長/ 17.9m

最大支間/ 14.65m

幅/ 4.6m