FUKUOKA 31
筑後川導流堤
福岡県大川市~佐賀県佐賀市川副町
干潮時に現れる6.5km の背中
若津港を守る龍のごとく
オランダ人技師の名を冠した
明治時代の導流堤
筑後川下流の福岡県大川市・柳川市、佐賀県佐賀市にまたがる「若津港導流堤」、通称「筑後川デレーケ導流堤」は、川の流れを速めることで河口付近での土砂の堆積を防ぎ、航路を維持するために築かれたものです。
内務省土木局の御雇外国人として来日し、木曽三川分流工事や三国港(現福井港の一部)築港工事など、各地の土木水利工事を指導したオランダ人土木技師ヨハネス・デ・レーケが総合監修を行いました。明治20 年(1887)から始まった筑後川第一期改修工事で築かれた土木施設で、当時の明治政府により、筑後川全川にわたる根本的な改修の要望を受けたものでした。
140 年あまり、自然の力だけで航路の水深を維持する役割を果たし、満潮時は水面下に隠れてしまいますが、潮が引き始めると、6.5km にもおよぶまるで龍のような背中をゆっくりと現わします。
粗朶沈床にみられる
オランダと日本の技術の共通性
干満差6 メートルの有明海に流れ込む河口は、上げ潮で土砂がたまりやすく、川の流れを速め、堆積する土砂を遠浅の河口に押し流す仕組みです。その完成によって若津港は、大型蒸気船の航行が可能となり、明治29 年(1896)の若津港の積み出し金額は博多港の倍以上となるほど。若津と諸富港をあわせ「大川口」と呼ばれ、大阪、長崎と結ぶ一大流通拠点となりました。
デ・レーケは「粗朶沈床(そだちんしょう)」というオランダの伝統的工法を用いました。粗朶とは堅く強い木の枝のことで、格子状に組み上げた上に石を詰めて、川底に沈めます。材料は、長崎の小長井から石材と一緒に粗朶を帆船で運搬しました。腐食しにくく、軟弱な地盤でも荷重を広く分散するため安定し、しかも生物が棲みやすくなります。実は、粗朶沈床は、九州の干拓な
どで江戸時代からみられる工法で、欧州と日本の伝統技術の一致と、その交流を物語っています。
DATA
所在地/福岡県大川市
佐賀県佐賀市川副町 筑後川河口
完成年/明治 23 年(1890)
設計者/ヨハネス・デ・レーケ
管理者/福岡県
文化財指定等/土木学会選奨土木遺産
<施設の形式・諸元>
石導流提(空積、捨石)
延長/ 6,527m 幅/ 6m(張石部)、11m(捨石部)