最新のブラウザをご使用ください

古いブラウザにてご利用いただいた際に、部分的に機能が制限されたり、また正常にページが表示されない場合がございます。

FUKUOKA 32

矩手水門(苦楽橋)

福岡県みやま市高田町永治、黒崎

立花藩の大規模干拓を支えた
赤煉瓦の眼鏡橋

土木の神様田中吉政と
干拓堤防「慶長本土居」

関ヶ原合戦後、筑後一国を与えられて柳川城に入城した田中吉政は「土木の神様」と称されています。この地では有明海の6mもの干満差を利用して、すでに13 世紀には干拓が行われていましたが、慶長7 年(1602)、吉政は現在の柳川市大和町鷹尾から大川市酒見に及ぶ築堤を命じました。総延長32km に及ぶ「慶長本土居」と呼ばれる干拓堤防で、25km の第1期工事は、用意周到に干潮と小潮を見極め、農民を総動員してわずか3 日間で完成させた偉業は今に語り継がれています。
元和6 年(1620)、2 代忠政が病没すると、無嗣断絶により改易となって筑後国は分割され、立花宗茂が初代柳川藩主となると、さらに大規模な干拓が行われるようになります。黒崎開は、17 世紀後半から末頃には完成したとみられる立花藩初の藩営で行われた最大の干拓事業。これに次ぐ規模の干拓事業が、文政7 年(1824)から9 年(1826)年にかけ(柳川市の看板)開発された永治開(えいじかい)です。

潟で堤防傾く難工事
苦楽橋の名にこめられた思い

「開」とは干拓を意味し、潮止めと排水のために樋門を設けますが、干潮のわずかな時間に行うしかない難工事でした。
堤防の形が大工道具の曲尺に似ているところから名がついた矩手水門(かねんてすいもん)は、江戸時代に築造された黒崎堤防と永治堤防の間にあります。当初の樋門は狭くて排水が悪く、村が洪水に陥ることもあったため、明治31 年(1898)から改修がすすめられ、当時の金額で4 千数百円(当時の米1 俵が3 円28 銭)と村人3 千人の労働力をかけ、翌年に完成しました。
工事の途中、波に流されることもあり、ついには潟のため堤防の重さに耐えきれず内側に傾き始めたことから、水門両岸の堤防石垣の間に赤煉瓦造りの橋を架けて支えました。「苦楽橋」の名は工事のつらさを耐え抜き、完遂した村民の喜びを現しています。矩手水門は見事に役割を果たし、その地先には昭和まで続いた国営干拓のさらなる広大な農地が広がっています。

有明海の潟

DATA

所在地/福岡県みやま市高田町永治、黒崎

完成年/明治 32 年(1899)

施工者/福岡県

管理者/福岡県

文化財指定等/福岡県指定史跡 「旧柳河藩干拓遺跡」として黒崎堤防、永治堤防、 矩手水門が指定

<施設の形式・諸元>

【矩手水門】

煉瓦水門

敷高/ 0.83m 扉幅/ 2.00m(3 門)、高さ3.00m の暗渠

【苦楽橋(補強アーチ)】

厚さ3.00m の全半円の眼鏡橋形式(煉瓦アーチ)

主径間/ 4.6m 径間/ 5.5m(3 連)