FUKUOKA 34
寄口橋
八女市上陽町北川内(星野川)
技術は名工橋本勘五郎から息子へ
そして地元の石工たちへ
「ひふみよ橋」
一連から四連アーチの石橋群
八女市上陽町の星野川には、明治から昭和初期までに造られた石橋が13橋あり、寄口橋もそのひとつです。
バランスの良い二連のスタイルが美しく、一連アーチの洗玉橋、三連の大瀬橋(だいぜばし)、四連の宮ヶ原橋とあわせて「ひふみよ橋」といわれています。
明治23 年(1890)、上陽町を襲った3 度の大洪水により星野川に架かった木橋は全て流されてしまいました。「大洪水でも流されない石造りの橋を造ってほしい」との住民からの強い要望と222 名の寄付があり、熊本の種山石工集団の名工、橋本勘五郎や息子の弥熊(やぐま)、萩本卯作といった弟子達により、明治26 年(1893)に最初の一連の「洗玉橋」が完成しました。
その要石には、兄の宇市とともに勘五郎が手掛けた、国宝「通潤橋」と兄弟橋であることが刻銘されています。
乱積みから布積みへ
地元石工たちの技術革新
寄口橋は、地元長野の石工棟梁、山下佐太郎、上陽町北川内の大工棟梁、小川弥四郎によって大正9 年(1920)に架橋されました。橋本勘五郎が手掛けたとされる皇居の「二重橋」(2 つの橋の奥の橋。現在は鉄橋に架け替え)を再現しようとしたものと伝えられています。
「ひ」と「ふ」の橋には、名工への地元の石工の憧憬が秘められています。不規則な石を隙間なく積み上げる乱積みの洗玉橋に対して、寄口橋は高さがそろった石材を使い、横の目地を通し継ぎ目にモルタルを使った布積みとなっています。より高度な技術を要する乱積みから布積みへ。明治から大正の、石橋の技術の変遷を見てとれます。明治の人びとの願いを叶え、石橋群は明治から大正の技術変遷を物語る布積み 幾度の水害にも耐え人びとの往来を支えています。
DATA
所在地/福岡県八女市上陽町北川内(星野川)
完成年/大正 9 年(1920)
設計者・施工者/石工棟梁 山下佐太郎(長野)
大工棟梁 小川弥四郎(北河内)(八女郡川崎村)
管理者/八女市
<施設の形式・諸元>
2 連石造アーチ
橋長/ 42.05m アーチ径/ 16.5m