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FUKUOKA 41

洗玉橋

福岡県八女市上陽町北川内字洗玉

名匠橋本勘五郎 72 歳
最後に架けた石橋

村費郡費に222 名の
有志の寄附を集めて石橋へ

八女市上陽町の星野川には、明治から昭和初期までに造られた石橋が13橋架かります。
1 連から4 連まで、「ひふみよ橋」として知られる最初の「ひ」の1 連アーチ橋が、「洗玉橋(せんぎょくばし)」。明治26 年(1893)5 月3日、熊本県の国宝、通潤橋を手掛けた橋本勘五郎によって架設されました。当時、上妻・下妻郡役所では木橋の計画が進められていましたが、北川内村民の強い要望により石橋に変更され、郡費村費で足らぬのならと北川内村民222 名の寄附が集まり実現した石橋です。
そして、明治30 年(1897)、肥後種山村で76 歳で生涯を閉じた、名匠勘五郎が最後に手掛けた石橋として知られています。

石畳残る路面

「肥後上益城矢部吹上兄弟橋」
国宝通潤橋の
兄弟橋と刻まれた要石

すぐ横に県道52 号八女香春線の主要道用の橋がかけられ、洗玉橋は歩道となり、路面も風情ある石畳が残ります。上流側のアーチ中央の要石には「肥後上益城矢部吹上兄弟橋、八代種山棟梁 橋本勘五郎、倅 源平、孫 為八」と、勘五郎の孫まで三代にわたる刻銘が入っています。「肥後上益城矢部吹上兄弟橋」とは、通潤橋と兄弟であるという意味です。
壁石は種山石工伝統の自然石の乱れ積みの技法をとりいれ、石橋の両岸部は、城壁や通潤橋に見られる鞘石垣(さやいしがき)、袖石垣の構造で裾広がりとなっています。福岡県随一とも言われる最大級の石橋で、明治・大正・昭和と幾多の洪水にも耐え、美しい弧を描き、アーチ造りの強靭さを物語っています。
平成13 年(2001)の護岸工事の際には、洗玉橋の直下から石橋の部材が発見されました。勘五郎たちが手がけた洗玉橋の欄干が落下し川底に長いこと眠っていたもので、ホタルと石橋の里公園に大切に展示されています。

通潤橋(熊本県上益城郡山都町)

DATA

所在地/八女市上陽町北川内字洗玉

完成年/明治 26 年(1893)

設計者/石工棟梁:橋本勘五郎

大工棟梁/吉沢大七

施工者/石工棟梁:橋本勘五郎

大工棟梁/吉沢大七

管理者/八女市

文化財指定等/八女市指定有形文化財

<施設の形式・諸元>

橋長/ 32.5m

幅員/ 5m

径間/ 22.5m

拱矢(こうし)/ 10m(アーチ内側の頂からアーチ基礎までの高さ)