FUKUOKA 45
花巡廻水路隧道
福岡県八女市黒木町
広大な面積を潤す矢部川
受け継がれる慣行水利権とともに
相手藩の堰を迂回して
水を自領地へ
矢部川は、右岸の久留米藩と左岸の柳川藩の境の川として「御境川」とも呼ばれました。
筑後川下流の左岸地域は、そのほとんどが水源を矢部川およびその支・派流に頼っていました。量的に厳しい水利環境にもかかわらず、江戸時代初期から、久留米藩の領地では矢部川水系から分流する山ノ井川・花宗川、柳川藩の領地では広瀬水路などが整備され、さらに、有明海の干拓により沖へ沖へと農地が拡大し続けました。
「廻水路」とは、取水した水を下流の対岸側の堰を迂回して、さらにその下流にある自分たちの領地の堰へと「水を廻す」ための水路です。延宝8 年(1680)、干拓によって用水不足をきたしたことから柳川藩が「唐ノ瀬堰」の強化を行います。その後、久留米藩側での、貞享 2 年( 1685)に花宗堰を、翌年には柳川藩が入野堰を設けます。
宝暦12 年(1762)の大旱魃を契機に、久留米藩は唐ノ瀬堰の上流に惣河内堰を設け、この余排水は唐ノ瀬堰を迂回してその下流へと落水し、結果的に花宗堰の取水量を増やすこととなりました。こうして柳川藩8ヶ所、右岸の久留米藩は5ヶ所、交互に上流へ、上流へと廻水路の建設が行われていきました。
廻水路継承のために
50mの岩盤を切りぬいた花巡隧道
弘化元年(1844)、久留米藩側で矢部川最上流域に「花巡堰」「花巡廻水路」が開削されます。全長3.15km に及び、矢部川最上流端の堰となりました。「花巡廻水路隧道」は、花巡廻水路の中流部にある石造りの隧道です。断面は幅1.8m×高さ0.9m の半円状、延長約50mもの岩盤を切り抜いてつくられています。
花巡廻水路で隧道化されている区間は、道路拡幅の代替や水路の防災事業として大正から昭和期にかけて築造されたとみられ、それらの煉瓦や石造構築物は琵琶湖疎水事業などを参考にした技術が導入されました。営々と構築されてきた井堰と廻水路は、幾多の改良を重ねながら、昭和38 年(1963)、花巡堰上流に日向神ダムが完成した後も、維持、利用され、藩政期につくりあげられた水利慣行が今も受け継がれています。
DATA
所在地/八女市黒木町椎窓、大渕
花巡回水路中流部
完成年/昭和 10 年代
管理者/福岡県八女土木事務所
花宗用水組合
<施設の形式・諸元>
石造りの隧道
延長/約 50m
断面/幅 1.8m×高さ0.9m の半円状