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FUKUOKA 48

三池陣屋橋

大牟田市大字新町(堂面川)(元三池藩陣屋跡の大手門)

三池藩最後の藩主立花種恭が
陣屋再建で架けた石橋

隠居蟄居を命じられた藩主の無念
石橋は三池藩半地復封の証

陣屋眼鏡橋は、三池藩陣屋の大手門前を流れる堂面川に架けられた一連アーチの石橋です。
筑後国三池藩は第4 代藩主・立花貫長(やすなが)の時代である元文3年(1738)に石炭の採掘が始まり、平成9 年(1997)まで存続した三池炭鉱の礎ともなった藩です。6 代藩主立花種周(たねちか)は大番頭や寺社奉行など、幕府の要職を歴任。老中松平定信によって北辺防備総監兼務の若年寄に任命され、寛政10 年(1798)には近藤重蔵らを派遣し、国後島、択捉島などの北辺実地踏査を行いました。しかし、松平派と将軍徳川家斉、大奥などの一橋派の政争に巻き込まれ、文化2 年(1805)、隠居蟄居を命じられます。
わずか13 歳で7 代目三池藩主となった四男の種善は、陸奥下手渡(しもてど)藩(現・福島県月館町)へ領地替えとなり、種周も移って間もなく死去。
三池藩は天領となり、半地復封で三池郡五カ村の5071 石が、3 代下手渡藩主立花種恭(たねゆき)へと返還されたのは、嘉永3 年(1850)のことでした。種恭は嘉永5 年(1852)年に三池陣屋の再建に取りかかり、その後、石橋が完成したとみられています。

堂面川を跨ぐ三池陣屋橋

輪石を切石が取り巻く珍しい工法
櫟野石と石工集団

石材は大牟田の東南部、櫟野(いちの)地方に広く分布している阿蘇溶結凝灰岩で加工しやすく、「櫟野石」と呼ばれていました。要石に「幸兵衛・伊三良」、右四つ目の輪石には「櫟野石工棟梁金兵工・棟梁脇幸兵衛・伊三良」と記銘されています。幸兵衛は、櫟野の名工石丸幸助の長男として天保2 年(1831)年に生まれ、幸助が嘉永4 年(1851)に亡くなると、父の後を継いで棟梁脇石工となったことから、石階の築造時期が推測できます。輪石を取り巻くように切石がめぐらせてあり、荷重を各輪石に均等に分散している珍しい工法です。
三池陣屋は現在の三池小学校の辺りに築かれていました。小学校の西の三池郷土館の東側に付いている尾根が陣屋の御殿の一部で、陣屋遺構である石段も残ります。陣屋再建から10 年ほど後に明治維新となり、種恭は三池藩最後の藩主となりました。

DATA

所在地/大牟田市大字新町(堂面川)

(元三池藩陣屋跡の大手門)

完成年/嘉永年間(1850)

設計者・施工者/櫟野石工棟梁 金兵工 棟梁 脇幸兵衛 伊三良

管理者/大牟田市

<施設の形式・諸元>

一連アーチ石造橋

輪石 26 個に要石 1 個の 27 個で構成

橋長/ 11.5m 径間/ 6.8m

拱矢/ 2.4m 幅/ 4.3m