FUKUOKA 05
若松港石垣岸壁
福岡県北九州市若松区
資金難を乗り越えて
日本一の石炭積出港への歩み
石炭の発見と「筑豊」の誕生
川ひらたによる石炭人力輸送
筑豊地方において石炭が発見されたのは文明10 年(1478)のこと。筑前国遠賀郡香月村(現在の八幡西区)で焚火をしていた時、 黒い石が燃えているのを発見したのが始まりと言われています。
塩田の燃料として使われ始めたことから、福岡藩は石炭を全て藩の会所に集める直営式とし、財政の支えとします。しかし、明治時代になると産業革命期に入り、明治2 年(1869)に鉱山解放令が公布されるや、山師たちは炭田に殺到し、乱掘が始まりました。明治18 年(1885)、筑前から豊前にわたる5 つの郡(遠賀・鞍手・嘉麻・穂波・田川)は組合をつくり、その5 つの組合が直方に集まって、日本で最初の組合連合団体「筑前国豊前国石炭坑業人組合」が炭鉱14 社29 炭鉱で誕生しました。「筑豊」という地方名は、この組合から広まりました。
しかし、筑豊の石炭輸送は、長らく遠賀川と、中間から洞海湾に通じる堀川運河の水運によるものでした。「川ひらた(五平太舟)」と言われる石炭舟で洞海湾へと運ばれ、帰りは人力で陸から綱で引いて、数日かけて川を遡り筑豊へ戻るというものでした。
採掘量日本一に応える
若松港石垣岸壁による港湾近代化
欧米列強の仲間入りを果たすべく、日本は、蒸気機関車や鉄鋼業などのエネルギーとして欠かせない燃料としてさらなる石炭の増産体制に入ります。
筑豊炭田は、日本一の採掘量を誇る炭鉱となり、明治24 年(1891)若松-直方間の石炭輸送のための「筑豊興業鉄道」が開通しますが、遠浅の洞海湾に大型船舶が入れず、浚渫による水深の確保や、護岸整備による石炭輸送は急務でした。事業を担ったのは明治23 年(1890)に設立された「若松港築港会社(現・若築建設)」で、発起人は炭鉱業者を中心とした81 名。株主には澁澤栄一も名を連ねていました。
幾多の資金難を乗り越えながら、明治33 年(1900)以降、若松港石垣岸壁が整備され、日本一の石炭集積港となっていきます。官営八幡製鐵所を軸とする日本近代化、そして北九州コンビナート形成の大きな原動力となっていくのです。岸壁沿いには旧古河鉱業若松ビルなど、明治から昭和20 年代の建物がレトロな雰囲気に彩りを添えています。
DATA
所在地/福岡県北九州市若松区 若松築港
完成年/明治 25 年(1892 年)
設計者/若松港築港会社
施工者/若松港築港会社
<施設の形式・諸元>
石護岸
延長/ 500m