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FUKUOKA 08

堀川運河

中間市中間2丁目

初代福岡藩主黒田長政から
183年の歳月をかけた運河

江戸時代の上納米から
明治時代の石炭へ

堀川は、北九州市八幡西区楠橋の遠賀川右岸取水口の寿命唐戸を起点に、中間市・水巻町・北九州市八幡西区本城を経て洞海湾に注ぐ総延長12.1kmの運河です。九州北部の霊峰英彦山に源を発し、筑豊平野を縦断して玄海灘に注ぐ遠賀川の洪水調節・水運・灌漑の便を図ることを目的に、元和7年(1621)福岡藩初代藩主、黒田長政が開削に着手したのが始まりで、そこから実に183年(中止期間を含む)という永い年月をかけて完成しました。
この運河開削のため河床などになった田畑は約18haに及びましたが、灌漑用水としての利用は16ヵ村約480haにわたり、嘉穂・遠賀・鞍手・穂波四郡の藩米輸送としての水運利用、また水害の防止に大きな役割を果たしました。明治中期より石炭の採掘が盛んになると、上納米輸送から石炭輸送に変わり、川ひらた(五平田船)が往来し、堀川沿線は商店の賑わいを見せるようになります。

矢穴や鑿痕が物語る
切り通しの難工事

全盛期には年間に約13万隻も通過していたといわれる川ひらたも、明治24年(1891)に筑豊鉄道が開通すると、石炭輸送もしだいに水運から鉄道へと移っていきます。堀川運河は、昭和13年(1938)を最後に約200年続いた水運の歴史を閉じ、もとの灌漑用、雨水排水用の水路として現在に至っています。
その崖面には矢穴(矢という楔状の道具をいれるためのほぞ穴)や鑿痕(のみあと)、溝状の切れ込みが今も残ります。このような堅い岩の「切り通し」をともなう江戸時代の運河は全国的にも珍しいといわれ、その工事がいかに困難であったかに思い至ります。その堀川開通時につくられたのが、遠賀川からの導水と水流調節の役目を果たす中間唐戸(水門)で、ほかにも、車返しの切貫き(切り抜き)や吉田川の伏越など堀川沿いを歩きながら見ることができます。

若戸渡船から見る若戸大橋

DATA

所在地/中間市中間 2 丁目

第 1期工事:元和 7年(1621)着手 元和 9年(1623)中止

第 2期工事:宝暦 12年(1762)完成

第 3期工事:宝暦 12年(1762)完成

第 4期工事:文化元年(1804)完成

設計者・施工者/福岡藩主 黒田長政、家老 栗山大膳、郡方元締 櫛橋又之進

管理者/福岡県北九州土木事務所

文化財指定等/福岡県指定史跡(中間唐戸の水門)

<施設の形式・諸元>

開削水路

延長/ 12.1km 幅/ 18.2m ~ 6.4m (平均幅員 11.0m)

深さ/ 15.0m(車返し付近)~ 1.8m