KAGOSHIMA 01
江之口橋
鹿児島県薩摩川内市高江町峰小横
肥後の名工岩永三五郎が
薩摩で最後に架けた石橋
治水工事による人工の川に
架けられた石橋
江之口橋は、薩摩川内市高江町を流れる八間川(はちけんがわ)に架けられた石造2連アーチ橋です。嘉永2年(1849)に架橋され、180年あまり経っていますが現在も生活道路として使用されています。
この一帯は、貞享4年(1687)、8年の難工事の末に完成した長崎堤防によって新田開発された地でした。しかし、もともと海抜0mの沼地であることから、満潮時の川の水の排水が長年の課題となっていました。
薩摩藩の家老、調所広郷(ずしょひろさと)は、肥後から招き、藩内で甲突川五石橋(こうとつがわごせっきょう)などの架橋や土木・治水工事に情熱をもって携わっていた岩永三五郎を普請奉行とともに派遣します。
永送りの噂の中
完成を遂げ帰郷した三五郎
三五郎は弘化5年(1848)から治水工事に取り掛かり、川内川に流れ込む川幅8 間(14.5m)、延長1里1町(4.04km)の人工の川が完成し、八間川(はっけんがわ)と名付けられました。
しかし10代藩主島津斉興(なりおき)のもとで、薩摩藩の天保改革を担っていた広郷は、斉興と斉彬(なりあきら)の権力抗争の中で、幕府から密貿易の罪を追求され自害に追い込まれます。薩摩藩が内情を知りすぎた三五郎達を、技術の漏洩防止のため永送り(暗殺)するのではないかという噂が立ち、弟の三平らを肥後国に返し、最後まで残った三五郎自身も嘉永2年(1849)に帰郷を許されました。藩から送られた刺客が、三五郎の人柄を知っていて、秘密裡に逃がしたとも云われています。
八間川の治水工事の一環で、帰郷した年に架けられた江之口橋は、三五郎が命の危険にさらされながらも、惜別の情をもって完成を遂げたと云われる、薩摩で最後に架けた石橋です。
DATA
所在地/鹿児島県薩摩川内市高江町峰小横
完成年/嘉永 2年(1849)
設計者・施工者/岩永三五郎
管理者/薩摩川内市
文化財指定等/薩摩川内市指定文化財
<施設の形式・諸元>
2連充腹式石造アーチ橋
橋長/ 17.3m 幅員/ 3.4m
支間/ 7.5m