KAGOSHIMA 34
西田橋
鹿児島県鹿児島市浜町地内(石橋記念公園)
創建時の名工技を伝える
薩摩藩主が渡った4連アーチ
平成5年、未曽有の集中豪雨に
耐えた3つの橋
甲突川五石橋(こうつきがわごせっきょう)は、鹿児島市を流れる甲突川にかつて架かっていた石橋群です。上流から玉江橋、新上橋(しんかんばし)、西田橋、高麗橋(こうらいばし)、武之橋とあり、肥後の種山石工、岩永三五郎の手によるものでした。
創建以来、時代の変化にともなう改修を受けながらも、現役だった五石橋でしたが、平成5年(1993)8月6日の集中豪雨による未曽有の洪水で、新上橋と武之橋の2橋が流失します。残る3橋は河川改修のため、長い時間をかけた検討を経て、護岸も再現した公園事業とともに移設、復元されることとなりました。
現在、石橋記念公園の中で、その歴史を受け継いでいます
「まことに良工なりしは
人の能く知る所にして」
岩永三五郎は、通潤橋の見本となったといわれる美里町の雄亀滝橋(おけだけばし)や、八代干拓を手掛けた肥後の石工であり、名工です。10代藩主となった島津斉興(しまづなりおき)は、8代藩主、重豪(しげひで)の代からの藩政改革の重鎮である、調所広郷(ずしょひろさと)を重用し、天保の改革
を行います。
「性質淡薄寡欲にして、まことに良工なりしは人の能く知る所にして、水利を視、得失を考え、大数を測るに敏なる、はじめて見る地といえども神のごとし」(『海老原清熙履歴概略』肥後石工岩永三五郎ノ事)。広郷の下で改革に従事した海老原清熙(きよひろ)を通じて、三五郎の功績を知るところとなった広郷は斉興に進言し、天保11年(1840)、三五郎は薩摩藩に招かれ、各地で架橋や土木・治水工事に情熱をもって携わりました。
治水工事とともに
橋を架けた三五郎
弘化2年(1845)より、甲突川に毎年一橋ずつ、治水のための川の護岸工
事とあわせ、甲突川五石橋を架けます。西田橋は、弘化3年(1846)に完成
し、川幅が広い甲突川に、三五郎は見事な4連の石橋を架けました。
薩摩街道の道筋にあり、参勤交替を始めとして、島津公が渡るのは常に西
田橋でした。三五郎は城下の表玄関として、擬宝珠高欄を用いるなど、随所
に豪華かつ繊細な加工が施しています。
180年前へ時を戻す
先人の叡智を知る復元工事
水害前の西田橋は、明治43年(1910)に大規模な橋面縦断の改修工事が行われていましたが、それ以前の姿が史料や写真から推定できたため、弘化3年(1846)創建時の姿に復元されました。
石工たちが積み上げた橋を解体し、移動して組み上げることは難工事でしたが、先人の叡智を知り現代に受け継ぐ、歴史に残るプロジェクトとなりました。公園という第二の舞台で真の意味での永久橋となった西田橋。その下で水遊びする子どもたちの記憶に、その姿はしっかりと刻まれています。
DATA
所在地/鹿児島県鹿児島市浜町地内(石橋記念公園)
県道鹿児島東市来線(移設前)
完成年/弘化3年(1846)
移設復元施工/平成11年(1999)
設計者・施工者/岩永三五郎
移設復元/鹿児島市
管理者/鹿児島県
文化財指定等/県指定有形文化財
<施設の形式・諸元>
石アーチ
橋長/ 49.5m 幅員/ 6.2m
支間/ 11.7、10.1m(4連) 拱矢/ 4.3m、3.6m