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KAGOSHIMA 35

高麗橋

鹿児島県鹿児島市祗園之洲町地内(祗園之洲公園)

西郷隆盛、大久保利通が暮らした
加治屋町に架かっていた4連アーチ

人びとの記憶に残る明治末から
大正時代の姿に復元

高麗橋は弘化4年(1847)、甲突川五石橋(こうつきがわごせっきょう)の中で3番目に架けられた橋です。高麗町と、西郷隆盛や大久保利通が青年時代を過ごした加治屋町との間に架かる、堂々たる4連の石造アーチ橋でした。
平成5年(1993)8月6日の集中豪雨による未曽有の洪水で、河川改修のため、長い時間をかけた検討を経て、公園事業とともに移設、復元されることとなりました。
解体前の高麗橋は創建以来、明治、大正、昭和と、戦災による破損や自動車交通に対応する改修で、高欄、敷石、壁石、水切石に至るまで、大きな改修が行われていました。しかし、工事史料などが残っていなかったことから、明治42年(1909)の改修時後の人びとの記憶に残る明治時代末から大正時代の姿に復元されています。

堂々とした水切り

流出した武之橋の石材を
再利用した路面

高麗橋を架けた岩永三五郎は、肥後の石工であり、名工です。
10代藩主となった島津斉興(しまづなりおき)は、調所広郷(ずしょひろさと)を重用し、天保の改革を行います。広郷は斉興に進言し、天保11年(1840)、三五郎は薩摩藩に招かれ、各地で架橋や土木・治水工事に情熱をもって携わりました。
垂直に近い勾配で立ち上がり、上流側に橋面近くまで築かれた大きな水切り。鹿児島の石の構造物に使われる溶結凝灰岩は、産地によって名前が違いますが、高麗橋のアーチは西田橋と同じ溶結凝灰岩の小野石、壁石は反田土石(たんたどいし)が使われています。橋面敷石は、解体前には高欄下の耳石の他はすべて置き換えられていましたが、耳石の形状から斜めの敷石判断し、流出した武之橋の反田土石を再利用して復元されました。
復元されることはありませんでしたが、嘉永元年(1848)、4番目に掛けられた武之橋が高麗橋の路面に息づいています。

薩英戦争の火蓋を切った天保山の砲台跡

甲突川の土砂でできた天保山
近代化の原動力となった石

割りやすく、加工しやすい溶結凝灰岩は、鹿児島の石文化をかたちづくりました。石橋や護岸はもちろんのこと、三五郎も携わった鹿児島港の波止(防波堤)、砲台や建物など、近代化の原動力となります。
薩摩藩では、島津斉興の頃から斉彬(なりあきら)の時代にかけて、外国から国を守るため次々に砲台を築き、天保山にも嘉永3年(1850)に砲台が設けられ、11門の大砲が配備されます。
文久2年(1862)の生麦事件に端を発し、イギリス艦隊が賠償交渉を有利に運ぶために薩摩藩の蒸気船を捕獲したことで藩は開戦を決定。正午、天保山砲台からの砲撃を合図に、11の砲台78門が一斉に砲撃を開始し、薩英戦争の火蓋を切りました。薩英戦争の講和交渉を通じてイギリスと薩摩は互いの文明を高く評価するようになり、関係を深めていくことになります。
三五郎の治水工事によって出た甲突川の川底の土砂を積み上げてできた天保山。石橋は幕末の歴史と深く繋がっています。

噴煙上がる桜島と高麗橋

DATA

所在地/鹿児島県鹿児島市祗園之洲町地内(祗園之洲公園)

市道高麗本通線(移設前)

完成年/弘化4年(1847)

移設復元施工/平成11年(1999)

設計者・施工者/岩永三五郎

移設復元/鹿児島市

管理者/鹿児島市

<施設の形式・諸元>

石アーチ

橋長/ 54.9m 幅員/ 5.4m

支間/ 12.6m、11.2m(4連) 拱矢/ 5.5m、4.6m