KAGOSHIMA 36
玉江橋
鹿児島県鹿児島市祗園之洲町(祗園之洲公園)
岩永三五郎の像が見守る
甲突川五石橋で最後の石橋
ほぼ創建当時のままだった
昭和30年代後半の姿へ
玉江橋は、甲突川五石橋(こうつきがわごせっきょう)の中で最後に架けられた4連の石造アーチ橋でした。五石橋の中で最も上流に嘉永2年(1849)に岩永三五郎により架けられた玉江橋は橋幅も一番狭く、城下町郊外ゆえか、他の甲突川五石橋とは少し趣が違います。
平成5年(1993)年8月6日の集中豪雨による未曽有の洪水で、河川改修のため、長い時間をかけた検討を経て、祇園之洲公園の水路に移設されることとなりました。昭和30年代後半までほぼ創建時の形状を留めていたと判断され、写真などから創建時の形状を推定しながら復元されています。
水利を視、得失を考え
大数を測るに敏なる
調所広郷(ずしょひろさと)は10代藩主島津斉興(しまづなりおき)の下、天保の改革を担った家老でした。「性質淡薄寡欲にして、まことに良工なりしは人の能く知る所にして、水利を視、得失を考え、大数を測るに敏なる、はじめて見る地といえども神のごとし」(『海老原清熙履歴概略』肥後石工岩永三五郎ノ事)。広郷の下で改革に従事した海老原清熙(きよひろ)を通じて、種山石工の三五郎の功績を知るところとなります。広郷は斉興に進言し、天保11年(1840)年、三五郎は一族とともに薩摩藩に招かれ、薩摩での10年の間に、三五郎は堤防による新田開発、波止(防波堤)の造築と、藩の財政に貢献する土木事業に情熱をもって携わりました。
円周率と手には曲尺
土木技術者としての生涯
しかし、島津斉興と島津斉彬(なりあきら)の権力抗争の矢面に立った広郷は、財政改革のための密貿易の罪を自ら負い、嘉永元(1848)年、自害。やがて石橋架橋の技術の漏洩をおそれた薩摩藩が三五郎を永送り(暗殺)するのではという噂が立ち、三五郎は連れてきた石工たちを故郷へと帰しました。嘉永2年(1849)、薩摩藩から帰郷を許され、最後に薩摩を離れた三五郎は藩が送った刺客により捕らえられますが、人となりをよく知る刺客が秘密裡に逃がしたと伝えられています。
祇園之洲公園には、玉江橋を見守るような岩永三五郎の像があります。手にしているのは、種山石工の創始者、林七が長崎でオランダ人から得た円周率の計算方法とともに、独自のアーチ式石橋建造法を生み出す際のヒントを得た曲尺(かねじゃく)です。
肥後へ戻って2年後、三五郎は59歳でこの世を去ります。「はじめて見る地といえども神のごとし」。世のため人のために尽くした、土木技術者としての生涯でした。
DATA
所在地/鹿児島県鹿児島市祗園之洲町(祗園之洲公園)
市道玉江橋線(移設前)
完成年/嘉永2年(1849)
設計者・施工者/岩永三五郎
移設復元/鹿児島市
管理者/鹿児島市
<施設の形式・諸元>
石アーチ
橋長/ 50.7m 幅員/ 4.0m
支間/ 11.6m、10.8m(4連)