KAGOSHIMA 37
長崎堤防
鹿児島県薩摩川内市高江町
幾度もの崩壊の末に完成を遂げた
小野仙右衛門の「心」
火の地獄とも歌われた入江地を
新田に変えるという使命
薩摩19代藩主の島津光久は、鎖国政策によって海外との貿易が閉ざされたことから、山ヶ野・永野金山を開発し、それを財源に川筋直しによる洪水対策や新田開発を各地で行いました。
川内川の河口から4km ほどにある高江(現薩摩川内市)は汐が流れ込む低水地で、干潮時は潟となる入江地でした。その一部で稲作が行われていましたが、大雨が降るたびに堤防は壊れ、流れ込む海水や泥によって米がとれない年もあり、「高江三千石 火の地獄」と歌われるほどでした。
光久の命で、新田開発の普請奉行を命じられた小野仙右衛門は、数千人の人夫を集めて築堤に着手します。
8年目に辿り着いた
のこぎり歯状の形
しかし干潟の軟弱地盤と大雨で幾度も崩れ去り、堤防を築くことができませんでした。工事から7年が過ぎた貞享3年(1686)、仙右衛門は強い決意をもって、「心 此為壱塘成就(この堤防が完成することを祈る)」、と磨崖に刻みました。
その翌年の貞享4年(1687)、3つの水門を備えた640mの堤防は完成し、干潟は千四百石もの米がとれる高江新田へと生まれ変わります。7ヶ所のこぎりの歯のような突起は水の勢いを弱めるための構造で、「長崎堤防」と呼ばれ、その後数回の改修が行われていますが、上流部の2つののこぎりの歯は、仙右衛門が築いた形状を今に残しています。
袈裟姫伝説が物語る
仙右衛門
長崎堤防には、「袈裟姫伝説」という悲しい物語が潜んでいます。
夢のお告げによって愛娘の袈裟(けさ)が自ら人柱となって川に身を投げ、仙右衛門は嘆き悲しみながらも、同じ夢のとおりに川の流れに長い縄を投じたところ、七ヶ所曲がりながら伸びていきました。その形通りに石垣を築くことで、ついに完成することができたと、今も語り継がれています。
仙右衛門は、生涯に渡り八千石の新田開発に携わった薩摩藩士であり、現代の土木工学でも高く評価される技術者でした。刻まれた「心」の文字は、仙右衛門を祀った小野神社の下、川内川のほとりに今も残っています。
DATA
鹿児島県薩摩川内市高江町
完成年/貞享4年(1687)
設計者・施工者/小野仙右衛門
管理者/国土交通省川内川河川事務所
文化財指定等/土木学会推奨遺産
<施設の形式・諸元>
石積み護岸、9連の突堤
全長/ 640m 高さ/ 3 ~ 4m
突堤規模/ 4 ~ 18m 突堤間隔/ 7 ~ 42m