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KUMAMOTO 27

雄亀滝橋

熊本県下益城郡美里町石野

通潤橋の手本と云われる
後の岩永三五郎が架けた石橋

当惑谷に水路橋を架ける
惣庄屋三隅丈八の計画

雄亀滝橋(おけだけばし)は、緑川の支流である柏川から取水する柏川井手が、雄亀滝の深い谷を通る地点に造られた水路橋です。
砥用手永(ともちてなが・手永制は細川家が領地に導入した行政制度)の惣庄屋三隅丈八は、石野村以下十あまりの村の灌漑のため、緑川の支流、柏川より取水する柏川井手の開削に文化10 年(1813)に着手します。
丈八は、木橋を何度架けても流されることからその名がついた「当惑谷」を越えて水を送る水路橋を計画し、種山石工の三五郎(後の岩永三五郎)と交渉し、快諾を得ました。

当惑谷を跨ぐ雄亀滝橋

石工宇七と出会った林七
種山石工の誕生

石工集団の種山石工は、多くの橋や石造物、土木工事を手掛けた技術者集団です。その祖といわれる藤原林七は、もとは長崎奉行所に勤めていた武士でした。
長崎の落ちない石橋に魅了され、出島のオランダ人と接触してアーチ式石橋の建造技術の元となる、円周率による計算方法を学びます。しかし、鎖国時代に無断で外国人と接触することは御法度で、追われる身となった林七は、天明7 年(1787)、肥後藩種山村(現・八代市)へと身を隠しました。
その種山村で林七は石工の宇七と出会い、円周率をもとに宮大工の曲尺(かねじゃく)にヒントを得て、独自のアーチ式石橋建造法を確立します。
そして種山石工として石工たちを束ね、その末裔や弟子たちへと技術は継承されていきました。

通潤橋

「砥用国始以来ノ大業」
今も現役の水路橋

雄亀滝橋は、寛政5 年(1793)、宇七の次男として生まれた三五郎が25歳の時に最初に架けたと云われる橋で、文化14 年(1817)に完成しました。水路は石樋で、漏水を防ぐため、間に漆喰を使用しています。
三隅家文書には、雄亀滝橋架橋を含む柏川井手開削について「砥用国始以来ノ大業」と記され、どれほどの難工事であったかがうかがえます。この完成によって11km の柏川井手が完成し、今でも現役の水路橋として、約113ha の田畑を潤しています。
後の嘉永7 年(1854)に、林七の孫たち、卯助、宇市、丈八(後の橋本勘五郎)が架けた水路橋、通潤橋の手本ともなったと云われる橋です。

谷を越える水の流れ

DATA

所在地/熊本県下益城郡美里町石野

完成年/文化14 年(1817)

設計者/総庄屋 三隅丈八

施工者/石工 種山(東陽村)三五郎 (岩永)

管理者/美里町

文化財指定等/熊本県指定重要文化財

<施設の形式・諸元>

単一アーチ石造水路橋

路面長/ 14.0m 幅/ 3.63m

水面より/ 10.7m