KUMAMOTO 36
萩原堤防・遥拝堰
熊本県八代市古麓町~豊原上町(球磨川)
加藤時代における
球磨川の利水と治水の大事業
利水と治水を叶えた
八の字堰
幾度もの洪水に見舞われてきた球磨川の治水の歴史は古く、中世の時代から土地を守るために、堤防や水制(水流の方向を変えたり、水の勢いを弱くするために設けられるもの)などを施工した記録があります。熊本藩初代藩主の加藤清正は、球磨川の八代平野部の堤防・堰を築造し、利水と治水の大事業を行いました。
球磨川が山間部から八代平野に出るところに築造された遥拝堰は、 48 瀬のしんがりと唄われ、平安・鎌倉時代の木の杭による杭瀬からの長い歴史を有しています。清正はこれを大きな自然石や割石を使って、強固な石堰にしました。両岸から上流に向かって斜めに大石を置き、中央は舟や筏が通れるようにし、そのかたちから「八の字堰」とも呼ばれます。洪水時には水が流れやすくするとともに、両川岸に流れ込む水を灌漑の水路に引き入れ、広大な農地を潤しました。
現在の堰は、昭和48年(1973)にコンクリート堰に改修されましたが、令和元年(2019)、そのすぐ下流に清正が築いたと云われる八の字の形状が、魚類などの良好な生息環境の保全・再生のために復元されています。
城と城下町を守った
6,190mの大土堤と水刎
萩原堤防は、遥拝堰の取付部、古麓町の山際から城北の松浜軒にいたる延長6,190mの大土堤で、元和5年(1619)から2年半を費して八代城を築城した城代、加藤正方(まさたか)が同時に完成させたものです。
球磨川の河口に築かれた八代城とその城下を洪水から防御するために築いたもので、現在の新萩原橋付近から上流は、特に萩原堤(はぎわらづつみ)と呼ばれ、7ヶ所の強固な水刎(みずはね)を備えた半環状の堤防です。
それぞれ堤脚取付部の角度を少しずつ変え、洪水時の激流をいずれも流心部へ跳ね返すよう工夫されています。
萩原堤は、宝暦5(1755)年の大洪水で10町余(約1km)にわたり破堤しましたが、八代郡目付の稲津弥右衛門が陣頭指揮をとって復旧し、天端幅約13m、基礎幅約45m、水面からの高さ約9mの堤防に改修しました。
人々は「あのや稲津様は仏か神か死ぬる命を助けたも」と歌い、弥右衛門の功績を称えました。
現在は、直轄河川改修により川表護岸が施工され、八代市を守る堤防としての役割を果たしながら、秋に行われる「やつしろ全国花火競技大会」を観覧できる場ともなり、憩いの場であった系譜を受け継いでいます。
DATA
所在地/八代市古麓町~豊原上町 球磨川
完成年/元和年間(1620年頃)
設計者・施工者/加藤清正
宝暦 5年(1755)復旧/八代郡目付 稲津弥右衛門
管理者/八代平野土地改良区連合
<施設の形式・諸元>
【萩原堤防】
土堰堤
延長/約 1,000m 天端幅/約 13m
基礎幅/約 45m 水面からの高さ/約 9m
【遥拝堰】
石堰
幅/約 800m 中央開口部/約 40m