最新のブラウザをご使用ください

古いブラウザにてご利用いただいた際に、部分的に機能が制限されたり、また正常にページが表示されない場合がございます。

KUMAMOTO 03

末広開(旧)樋門群

熊本県玉名市横島町

国営横島干拓の完成まで
第一線で活躍した明治の樋門群

築造主は資材を
農民は土地分割を条件に人を

天正16 年(1588)、25 万石の肥後国領主として入国した加藤清正は、翌年から藩内一円の巡視を実施し、菊池川河口に広がる遠浅と島に目をつけ干拓事業に取りかかりました。人柱の歴史が語り継がれる幾多の難工事を経て生まれたのが横島の町です。
江戸時代を通じて細川藩や家老の有吉家によって、さらに大規模な干拓が行われ、横島町は有吉家による干拓が主でしたが、それ以外の地区では手永や藩による干拓が行われました。明治の版籍奉還によって、藩営の干拓地は奉還されましたが、私築の干拓地は、築造主が石垣などの資材を負担し、農民は新地が竣工した後に土地の分割を条件に労力を提供したことから永小作人となり、明治時代の地租改正以後は、干拓地の正式な地主となっていきます。

2 門の樋門

三枚と樋門 2 基、2 門 1 基
高さ5mの威容

さらに許可を得れば個人による干拓が認められるようになると、明治20 年代末から30 年代にかけ、末広、明丑(めいちゅう)・明豊・大豊開などの干拓工事が、複数の大地主の共同によって集中的に行われるようになりました。
その石積み堤防群のなかに、高さ5m 以上のどっしりとした威容を持つ末広開(旧)樋門群があります。干拓堤防に造られた樋門とは、満潮時には締め、干潮時には開けて干拓地の水を排水する水門のことで、重要な役割を担います。末広開(旧)樋門群は明治28 年(1893)に完成し、明丑開の潮受堤防の間に、凝灰岩でつくられた六枚戸と呼ばれる3 門2 基、2 門1 基の水門が集中しています。
度重なる潮害で決壊などの被害を受けましたが、その 都度補修、改修がなされ、昭和42 年(1967)、20 年の歳月をかけた国営横島干拓の完成により第一線堤防としての役割を終えますが、往時のままの姿をよく留めています。

3 門の樋門

DATA

所在地/熊本県玉名市横島町

完成年/明治 28 年(1895)

文化財指定等/国指定重要文化財(建造物)

<施設の形式・諸元>

石水門(3 基)

3 門× 2 基、2 門×1 基