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MIYAZAKI 18

堀川運河

宮崎県日南市油津

油津港発展の礎
弁甲筏流しを支えた運河

何年かかってもと叱咤激励
藩主伊東祐実の強い意志

日南市の油津港は、中世には日明貿易の中継港として栄えていた天然の良港です。
江戸時代の中頃、伊東祐実(すけざね)が第5代飫肥藩主となった翌年の寛文2年(1662)、大地震、大津波が領内を襲って大被害を受け、また薩摩藩と境界争いがおこるなど多難な治世が続きました。広渡川河口から油津港を結ぶ「堀川運河」は、海路で迂回しなければならなかった飫肥杉の運搬を効率的に行うため、植林を奨励していた祐実の命により建設された運河です。2年4 ケ月の歳月をかけ、貞亨3年(1686)に完成しました。
しかし、運河を通すには50メートルもの岩盤を掘削せねばならない難工事。命じられた奉行が断念しようとしましたが、祐実は「やっていないうちから弱音を吐いては恥ずかしいことだ。何年かかってもやり通せ」と叱咤激励したと伝えられています。その強い意志が、油津港発展の礎となりました。

夢見橋の天井は飫肥杉の弾力性を生かした「曲げ木」

鉄道の登場で衰退した水運
もちあがる埋め立て計画

飫肥杉は、油分が多く軽いため、浮力が大きく、耐久性があることから船の材料、「弁甲材」として高い評価を受けていました。飫肥杉を筏に組んで運河を通じて港に運ぶことを「弁甲筏流し」と言い、その水運を支えたのが堀川運河です。
しかし、大正2年(1913)に飫肥-油津間に県営鉄道(現・日南線)が開通すると、堀川運河の水運も衰退の一途をたどります。
石積み護岸は、大正~昭和にかけて地元の有力者たちが請願工事として県の許可を得て自らの手で積み上げたものでしたが、それら護岸は補強のために昭和30年代頃に、コンクリートにより覆工されていました。

コンクリートを剥がし
元の石積み護岸に復元整備

昭和51年(1976)には水質悪化のため埋め立ての計画さえもちあがりますが、昭和63年(1988)、市民が「堀川運河を考える会」を結成し、運河を歴史的資産として保存・再生する運動が活発になり、油津の風景が観光地として見直されるようになりました。
平成5年度から取り組まれた護岸改修工事や親水空間づくりでは、コンクリートを剥がして当時の石積みを調査し、伝統的な石積み工法によって元の姿に復元整備され、平成19年(2007)に完成しました。また、長い時間をかけて市民の思いを設計に反映し、樹齢120年の飫肥杉と飫肥石を使い、くぎなどの金属を使わない伝統工法の「木組み」で造られた夢見橋も完成。石橋の堀川橋とともに、油津のシンボルとなりました。
思いが託された、その土木技術には、堀川運河を開削した強い意志が、確かに受け継がれています。

油津港の風景

DATA

所在地/宮崎県日南市油津

完成年/天和 3年(1683)~貞亨 3年(1686)

設計者・施工者/飫肥藩

文化財指定等/国登録有形文化財

<施設の形式・諸元>

延長/約 1,500m 幅員/約 22 ~ 36m

水深/約 3~6m