MIYAZAKI 05
上椎葉ダム
宮崎県東臼杵郡椎葉村
九州山脈の奥深く
500 万人を動員したアーチ式ダム
戦後復興の原動力となった
北九州工業地帯への電力供給
急速な重工業化で、水力発電事業が拡大した大正時代、水量豊富な宮崎県の耳川水系は電源開発の候補地となり、住友財閥を含めた4 社で、日本発送電株式会社九州支店(現在の九州電力)が設立されました。有力な開発地点として上椎葉が選定されましたが戦争により中断となっていました。
終戦後、一日も早い復興のため八幡製鐵所を始めとする北九州工業地帯への電力供給が重視される中、昭和21 年(1946)に早くも現在の位置で測量を開始。4 年後、耳川の最上流、九州山脈のもっとも奥深く、平家落人の里として伝えられる椎葉村で、戦後初の九州における大規模土木プロジェクト、上椎葉ダム建設事業が開始されました。
日本初の100m越えのハイダム
7 年もの歳月をかけた難工事
建設予定地は両岸とも堅固な花崗岩であることから、両側の岩盤に圧力を分散させ、水圧に耐える構造のアーチ式ダムが選ばれました。堤高は日本初の100mを越えとなる110m。堤体の厚さをより厚く、今のようなドーム型ではなく円筒式とし、膨大な水圧に耐えうる形式としました。
非常に険しい地形のため、昭和13 年(1938)に完成した同じ耳川水系の塚原(つかばる)ダム建設のために造られた索道(ワイヤーロープに搬器を吊して空中輸送する施設)を更新、延長。往復で約1400 個の搬器が空中に吊され、延岡・上椎葉間を約8 時間で資材を輸送しながら、5 年の歳月と、延べ500 万人の動員、130 億もの巨費を投じ、昭和30 年(1955)5 月、上椎葉ダムは完成します。
上椎葉ダムで得られた知見は
黒部ダム開発へと
毎年襲い来る台風など、完成までの道のりは苦難の連続でした。
昭和29 年(1954)9 月の台風12 号による被害は特に甚大で、耳川上流域で総雨量700 ミリを超える記録的な豪雨がダム現場を襲います。これにより建設中の上椎葉発電所が損壊、建設プラントなど多くの資材が流失し、工事も半年の遅れを余儀なくされるほどの難工事。105 人の殉職者を追悼する三女神像が、ダムを一望する場所に建立されています。
ダムの未知なる部分を克服するため、当時の土木技術の粋を尽くして建設された上椎葉ダム。このダム建設で得られた知見は、後の世紀の大事業、黒部ダムの建設へと繋がっていきます。
DATA
所在地/宮崎県椎葉村下福良
完成年/昭和 30 年(1955)
設計者/九州電力
施工者/鹿島建設、間組、熊谷組、奥村組
管理者/九州電力
<施設の形式・諸元>
アーチ式コンクリートダム
用途/発電
堤高/ 110.0m 堤長/ 341.0m
堤体積/ 390,000 ㎥ 総貯水量/ 91,550,000 ㎥
有効貯水量/ 76,000,000 ㎥