NAGASAKI 22
眼鏡橋
長崎県長崎市栄町 市道(中島川)
九州の石橋架橋技術の原点
水害を乗り越えた400 年の石橋
400 年支え合う石
落ちない橋の技術は九州一円へ
長崎市の中島川に美しい弧を映す「眼鏡橋」は、日本最古のアーチ型石橋です。
寛永11 年(1634)、興福寺の中国人僧、黙子如定禅師(もくすにょじょうぜんし)は、中島川の氾濫で繰り返し木橋が流されてはつくり直しているのを見かね、中国から石工を呼び寄せ、眼鏡橋を造らせたといわれています。
アーチ石橋の部材は、上が広くて下が狭い台形の石。その石を組み合わせていくと外に広がろうとする力がかかって、隣り合った石同士が支え合います。
アーチの頭頂部に要石を入れると、石は下に落ちることがないという構造です。江戸時代の中島川は、10 年に一度ほど氾濫していたといわれ、慶安元年(1648)の洪水では、平戸の石工と伝えられる平戸好夢(ひらとこうむ)が修復し、壊れた部材の石が繰り返し使われながら耐えてきました。
その技術は肥後の種山石工をはじめとする、落ちない石橋に魅せられた人びとによって、九州一円へと伝わっていくことになります。
6 橋が流出、3 橋大破した
長崎大水害を乗り越えて
昭和28 年(1953)まで、車がその上を平気で通っていたほど堅牢だった石橋。しかし昭和57 年(1982)7 月23 日、1 時間に最大187ミリもの雨量を観測した長崎大水害では眼鏡橋を含む中島川の14の橋のうち、6 橋が流出、3 橋が大破する甚大な被害にあいました。
眼鏡橋は831 個のうち、15%もの石材が流出。下流に流された石材をひとつひとつ拾い集め、角閃石安山岩であることから同じ石質の風頭山(かざがしらやま)の石材を使い、当時の技術をたどって修復されたのが現在の眼鏡橋の姿です。
バイパス水路で川幅を保つ
石橋の風景を守った土木技術
しかし、大水害を経験し、氾濫を防ぐために川幅を広げれば石橋を架けることは困難で、コンクリートの橋に架け替えるという議論も巻き起こります。
保存を願う市民と専門家によって、各地の水位上昇の綿密な記録が集められ、その分析を経て、中島川だけの問題ではなかったことが裏付けられました。橋などの姿をなるべく残すよう、川幅はそのままに、両岸の地下に暗渠式のバイパス水路を設けるという土木工事によって、400 年続く石橋群の風景は残ったのです。
大雨で流され、朽ちてしまう木橋に悩まされていた人びとを驚かせ、魅了してやまなかった眼鏡橋。その風景を守ったのは、昭和に打たれたひとつの希望の要石でした。
DATA
所在地/長崎県長崎市栄町 市道(中島川)
完成年/寛永11 年(1634)
設計者・施工者/興福寺黙子禅師
管理者/長崎市
文化財指定等/国指定重要文化財
<施設の形式・諸元>
石アーチ
橋長/ 22.0m 幅員/ 3.65(2 連)