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NAGASAKI 23

本河内低部(水道)堰堤

長崎県長崎市本河内

吉村長策の計画・設計による
国内2 番目のコンクリート造水道ダム

土木技術の革新を象徴する
国内2 番目のコンクリート造ダム

日本初のダム式水道となった本河内高部ダムの完成から、わずか3 年後の明治27 年(1894)、日清戦争が勃発。戦争景気によってまちは賑わい、船舶の出入りも多くなり、同じ年の7 月には給水開始以来始めての給水制限に追い込まれます。さらに明治31 年(1898)、第1次市域拡大によって市内の人口は約倍へと膨れ上がり、水の確保は長崎の発展にとって深刻な問題となりました。
そんな中、拡張工事の一環として誕生したのが、本河内低部ダムです。明治36 年(1903)に完成し、吉村長策による神戸水道五本圧ダムに次いで日本で2 番目のコンクリート造水道ダムとなりました。

旧堤体裏の増厚部分

水道ダムの旧堤体を保存しながら
多目的ダムへと改築

ダム本体は、ダムの右岸の石を砕いた粗石をコンクリートで固めた粗石造コンクリート。黎明期のコンクリート構造物で、型枠がわりの切石のブロックが、当時の革新的な技術を今に伝えています。
しかし、昭和57 年(1979)、時間雨量187mmという集中豪雨により、中島川が氾濫。本河内低部ダムは、治水もかねた多目的ダムへと、歴史的な旧堤体を保存しつつ改築されることになりました。
旧堤体の上流に、新しい堤体を打設し厚みを増すことで安全性を確保し、洪水吐は、竪坑型のトンネルにより下に流化させる方式を採用。100 年たった旧堤体を、新しく多目的ダムへと変更するという、土木技術史上、稀に見る工事がおこなわれ、本河内高部ダム、西山ダムとともに、平成23 年(2011)に完成をみます。

「水旱無増減」
さらに治水の一翼も担って

見あげる型枠がわりの切石のブロックは旧堤体、その背後にある新しいダムの増厚されたコンクリートも石張りとなり、一体的な調和が図られています。
銘板は、完成時のもので、伊東巳代治男爵の筆による「水旱無増減」。水旱(すいかん)は洪水と旱魃のことで、それらがあっても水道水の供給に増減はないという意味です。さらに治水の一翼も担い、本河内低部ダムは、さらなる歴史を刻んでいます。

本河内低部堰堤の旧堤体の前で

DATA

所在地/長崎県長崎市本河内町

完成年/明治36 年(1903)

設計者/吉村長策

管理者/長崎市水道局

<施設の形式・諸元>

粗石コンクリート(コンクリートブロック張)重力式ダム

高さ/ 22.71m 延長/ 115.15m