NAGASAKI 25
本河内高部(水道)堰堤
長崎県長崎市本河内町
日本初ダム式水道の歴史を継承する
上水道専用ダム
横浜、函館に次ぐ近代水道は
日本初のダム式水道
長崎は早くから海外へと開かれたまちでしたが、明治18年(1885)にコレラが蔓延し、その原因となった水に対して、長崎に在来していた外国人たちは、水道設備の必要性を説きました。
36歳の若さで県令となった日下良雄は水道布設を長崎発展のための最重要課題とし、工部大学校土木工学科(現・東京大学)の助教授だった吉村長策を水道建設の工師長として招き、設計に着手します。
戦後の資材不足の苦悩の仲、2年あまりの工事を経て、明治24年(1891)、本河内高部水源地が完成。横浜、函館につぐ日本で3番目の近代水道、そして日本初のダム式水道として、同じ年の5月16日から待望の給水が開始され、市民は歓喜しました。
コンクリート普及前の時代
人力で締め固めた粘土と土の堤体
本河内高部ダムは、コンクリート普及以前のダムで、その堤体は中心に粘土の隔壁、その上から2層の土を強く締め固めて造られています。
隔壁の粘土は足、土は石を縄でしばった重りで締め固め、工事はすべて人力。貯水側は石張り、下流側は雨で流されないよう芝生で覆われています。当時の長崎市年間予算の、実に倍に当たる30万円を投入して建設され、絵葉書もつくられ、一目、その近代的なダムを見ようと観光名所となるほどの名所となったといいます。
その12年後の明治36年(1903)、第1次市域拡大によって日本で2番目のコンクリート造水道、本河内低部ダムが完成します。この2つのダムは、土からコンクリートへいう土木技術史上の大きな革新を象徴するものでした。
古い堤体を保存したまま
貯水容量を増した新たな高部ダム
しかし、昭和57年(1979)、時間雨量187mmという集中豪雨により、中島川が氾濫。利水だけだった本河内高部ダムを水道専用ダムに、低部ダムを治水もかねた多目的ダムへと、歴史的な古いダムを保存しつつ新しいダムを建設することとなりました。
新たな本河内高部ダムは、ダム規模を抑え、古い堤体の55m上流に重力式コンクリートダムを新設。貯水容量を上げるために、新堤体は4.7m高くなり、長崎の水がめとなっています。
DATA
所在地/長崎県長崎市本河内町
完成年/明治24年(1891)完成 → 大正12年(1923)嵩上げ →
平成18年(2006)旧堤体を保存し、本河内高部ダム完成
設計者/吉村長策
管理者/長崎市水道局
文化財指定等/土木学会選奨土木遺産
<施設の形式・諸元>
アースダム
高さ/ 18.15m 延長/ 127.27m