NAGASAKI 26
日見隧道
長崎県長崎市芒塚町、一般国道34 号
長崎街道の難所を貫通した
幅員2 車線の大正時代の隧道
勝海舟と龍馬も越えた
天下の難所、日見峠
江戸時代、長崎市中心部への入口にある日見峠は、江戸時代には西の箱根とまで言われたそうで、長崎街道の難所でした。勝海舟と坂本龍馬もこの日見峠を越え、長崎へと赴いています。
現在の道路地図で見るつづら折りの道は、人や大八車が急斜面をのぼる苦心の末のかたちです。明治15 年(1882)、新たに結成された日見峠新道会社によって峠を33 メートル切り下げた「日見新道」が完成します。難工事の費用にあてるため、一人五厘、馬車五銭の交通料も徴収され、日本の有料道路の草分けとなりました。
車社会を見通したような2 車線幅
大正時代の装飾による坑門
やがて自動車の普及によって、長崎県が着手したのが「長崎二十五號國道日見隧道」、日見トンネルです。
大正15 年(1926)の完成当時、日本最大の全長642 メートル。人も馬車も車も通る、長崎に通じる唯一の大動脈でした。
変圧により、トンネルで最も弱い部分が入口の坑口で、崩壊を避けるため、より剛な構造で抑えるのがトンネルの顔となる坑門です。日見トンネルは2 本の柱や笠石など大正時代の装飾を色濃く残しています。その土木技術者たちが思いをこめた意匠は、44 年の歳月をかけたバイパス事業で誕生した「新日見トンネル」にも受け継がれました。
車社会が到来する以前の大正15 年に築造されたにも関わらず、ほぼ完全な2 車線が確保されていますが、当時としては画期的なものであったと思われます。旧街道の峠まわりには、難所を克服してきた土木の物語が潜んでいます。
DATA
所在地/長崎県長崎市芒塚町、一般国道34 号
完成年/大正15 年(1926)
設計者・施工者/日見新道株式会社
文化財指定等/国登録有形文化財
<施設の形式・諸元>
コンクリートブロックトンネル(コンクリートポータル)
延長/ 640m 幅/ 7.2m