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OITA 01

山国橋

大分県中津市-福岡県築上郡吉富町

2 つの穴は県境の証
明治の煉瓦橋脚を持つ道路橋

完成当初は
上部トラス木造 + 煉瓦橋脚

英彦山の野峠に源を発し、沖代平野を通って周防灘へとゆったりと注ぐ山国川。現在は福岡県と大分県の県境で、江戸時代は小倉藩と中津藩の藩界でした。吉富側の小犬丸村・広津村と、中津城下第一関門の小倉口の間の川幅は約220mあまり。急な瀬や満潮時の増水など、難所として知られていました。江戸時代の交通手段はほとんどが船渡し。寛保2年(1742)に一度橋が架けられますが、その2年後には洪水で流出。それ以後は、両岸の固定船を太い綱で繋ぎ、綱づたいに小船で渡っていました。
明治2年(1869)1月、広津-中津間に船を横に並べ、その上に板を敷いた船橋がついに架かります。やがて明治36年(1903)、岡・大分両県が架橋工事費8万円を投じて、幅4.5メートル、上部トラス木造、煉瓦橋脚「山国橋」が完成。煉瓦橋脚12基の中央を県境として、福岡県側の6つの橋脚には2つ穴が開いています。

中津城

壊さず継ぎ足し
明治の橋脚承継の温故知新

人とものの往来は大きく変わりましたが、上部が木製ゆえに老朽化が進み、路面に穴があくなど事故も起こるようになったことから、昭和9年(1934)、福岡・大分両県が総工費117,125 円をかけ、長さ215m、幅8mの鉄筋コンクリート製の現在の山国橋の姿が完成します。山国橋が特別なのは、煉瓦橋脚をよく見ると、橋脚を下流側へ同じ構造で継ぎ足した色の境目が見てとれます。明治の橋脚を昭和で大切に利活用し、120年以上を経ているのです。
現在の国道10号ができるまでは、この橋の道が国道10号として幹線道路の役割を果たし、地元では「国道橋」という通称もありました。昭和35年の山国大橋の開通に伴い、現在は県道中津-吉富線として生活道路として利用されています。
明治から昭和、両藩、両県を繋ぎ愛されてきた橋の歴史。今の時代にとっても学びがある見飽きぬ橋です。

県境による橋脚デザインの違いと拡幅の痕跡

DATA

所在地/福岡県築上郡吉富町、大分県中津市

県道中津-吉富線 山国川に架かる

完成年/明治 37年(1904)完成

昭和 9年(1934)拡幅

管理者/福岡県・大分県

<施設の形式・諸元>

RC 桁(カンチレバー、煉瓦橋脚)

橋長/ 214.4m 径間/ 16.5m(13連)