OITA 25
野津原三渠
大分県大分市野津原 用水路(大分川)
他領の水源から引く難工事
148 年かけ村全体を潤した井路
水源乏しき村を井路で潤した大恩人
惣庄屋工藤三助
肥後藩谷村は、府内藩、岡藩、天領に近接し、政治的に緊迫した状況にありました。また、水源乏しく、稲の収穫も少なく民は哀れなものでした。
手永とは、肥後藩が地方(じかた)の支配のためにおいた組織のことです。谷村手永(現・挟間町谷周辺)の惣庄屋、工藤三助は、寛永5年(1628)から安永5年(1776)、曾孫の代までかけて大竜(おおたつ)、鍮小野(かぎおの)、提子(ひさご)の三渠(渠は溝のこと)を掘り、堪水(たまりみず)にある野津原三渠碑によって大恩人と称えられています。
他領の水源、不動岩という難工事
谷村全体に水行き渡った日
三助は、妻の郷里である府内藩の野畑熊群山南麓に水源を見いだしてから10年後に井路開削に着手し、元禄12年(1699)、苦心の末に6km に渡る大竜井路を完成させます。
しかし、思うような量の水を引くことができず、幕府領と岡領に入って新たな水源を探しあてます。秘密裡に測量を行い、肥後藩の許しを得るため、30日間、奉行所の玄関で待ち続けたと云われています。工事は困難を極め、水源から4km 下流で巨岩に阻まれた際に、不動明王のお告げがあり破砕できたことから、岩場は「不動岩」と名付けられました。寛永4年(1707)、4年の歳月をかけて鍮小野井路が完成。現在はサイホンで谷を横断しています。
三助64歳のときに着工した提子井路は、大凶作などで2度の中止に追い込まれ、寛暦8年(1758)、三助は98歳で亡くなりました。その志は曾孫らに受け継がれ、安永5年(1776)に完成をみます。ついに、谷村全体に水が行き渡ることになりました。
最初の大竜井路から148年の歳月をかけ掘り抜かれた水路は後世の人びとの改修によって、今も水量豊かに流れています。
DATA
所在地/大分県大分市野津原 用水路(大分川)
完成年/元禄 12年(1700)~享保 9年(1724)
設計者/工藤三助
施工者/工藤三助、工藤弁助、佐藤夫四郎、佐藤清兵衛
管理者/世利川土地改良区
<施設の形式・諸元>
延長/約 6.7km(1里 25 丁) 灌漑面積/ 1.19 k㎡(120町歩)
【鑰小野井路】
延長/約 13.7km(3里 18 丁) 灌漑面積/ 3.28 k㎡(331町歩)
【提子井路】
石張り水路
延長/約 43km