OITA 35
虹澗橋
大分県臼杵市野津町・豊後大野市三重町
深い谷にかかる虹
径間長が日本一だった灰石のアーチ橋
3 年6ヶ月をかけた
家運が傾くほどの大事業
8 万年前から4 万年前にかけての阿蘇山の大噴火で流出した火砕流が固まってできた阿蘇凝灰岩を、臼杵では「灰石(はいし)」と呼びます。灰石を使った歴史は古墳時代中期に始まったと云われる灰石文化は、中世に臼杵磨崖仏をはじめとする仏教の石造品として花開き、石工たちによって石橋などの土木構造物へも広がります。
虹澗橋(こうかんきょう)は、文政7 年(1824)、臼杵藩領の三重町(現・豊後大野市)と野津町(現・臼杵市)境の柳井瀬の深い谷に、3 年6ヶ月をかけて架けられました。資金を出したのは臼杵の甲斐源助と三重の多田富治、後藤喜十。石工は、下ノ江大野の棟梁井沢織平です。
名の由来のままに
渓谷に架かる虹のような石橋
架橋で家運が傾いたと地元で唄われるほどであった一方、虹澗橋はその形が深い谷にかかる虹のようであることから名付けられました。
建設当時、径間長が日本一だったという石橋の技術をどこで修得したのかはなぞに包まれています。壁石が摺合積み(すりあわせづみ)になっているのが特徴的で、毎年くり返される洪水にも耐え、完成から200 年がたちます。
最近まで車が通っていましたが、現在は、左岸側の取付部で路面が傾斜するなど変状が生じ、歩行者のみとなっています。
DATA
所在地/大分県臼杵市野津町・豊後大野市三重町
完成年/文政7 年(1824)
設計者/甲斐源助等3 名(発起人)
施工者/井沢織平
管理者/豊後大野市
文化財指定等/国指定重要文化財
<施設の形式・諸元>
石アーチ
橋長/ 31.0m
幅員/ 6.5m
支間/ 25.2m
拱矢/ 11.2m