OITA 51
音無井路十二号分水
大分県竹田市大字九重野百木
「水は農家の魂なり」
争いを見事に鎮めた円形分水
志を継いだ導水路完成後の
配水量を巡る争い
大分県竹田市の百木集落に水を引く計画は、元禄6 年(1693)に発案されました。
その22 年後にようやく始まった開削は、豪雨災害で頓挫して通水に至らず、工事責任者だった岡藩の家臣、須賀勘助の引責切腹という悲劇を招きます。明治にはいってその意志を継いで、導水路が完成するやいなや、3 つの幹線への配水量を巡り、争いが絶えないようになりました。
そこで水を公平に配分するために、昭和6 年(1931)、音無井路十二号分水(おとなしいろじゅうにごうぶんすい)が造られました。
20ヶ所の分水窓によって
公平に水を分ける構造
2km の井路を通ってきた水はサイフォンの原理で円形水槽の中央から勢いよく湧き出ます。これを20ヶ所ある分水窓から決められた割合で3 つの幹線用水路に落とすことで、水は見事に公平に分配されます。十二号分水の名前は、排土用の窓の数に由来していると云われています。水量によっても分配量が変わることはなく、争いに終止符が打たれました。
傍らには「水は農家の魂なり」と手書きで書かれた歴史看板、そして、最初の工事責任者だった岡藩の家臣、勘助の供養碑が、壮絶な争いを鎮めた歴史を静かに物語っています。
DATA
所在地/大分県竹田市大字九重野百木
完成年/昭和 9 年(1934)
設計者/横山甚助(計画着手)
管理者/音無井路土地改良区
<施設の形式・諸元>
分水施設
貯水量/毎秒 0.7 ㎥(0.7 ㎥ /s)