OITA 07
青の洞門
大分県中津市本耶馬渓町
禅海和尚の偉業と明治の大改修
競秀峰を守りし福沢諭吉
ノミと槌だけで
30 年かけ完成した342mの削道
青の洞門は、山国川に面した競秀峰の裾にある宝暦13 年(1763)開通と伝えられる洞門(トンネル)です。
遍歴の旅の途中ここに立ち寄った禅海和尚は、断崖絶壁に鎖のみで結ばれた難所で人びとが命を落としていたため、トンネルを掘り安全な道を作ろうと、ノミと槌だけで開削に着手します。
禅海和尚は、近郷近在を托鉢に廻り、その浄財を資金として石工を雇い、村人の助けをうけました。最終的には、藩も資金的な援助を行ったと云われます。完成後、地蔵を安置し、遭難者や行人の安全を願い大供養を行った和尚は、村人から「生仏」と尊ばれ、法悦にひたる穏やかな生涯を送ったと伝えられています。
托鉢の浄財を資金に
石工を雇い掘り抜いた洞門
削道の長さは約342m、うち隧道部分の延長が約144m。現在の洞門は、明治40 年(1965)に大改修が行われた姿です。明り採り窓や、洞門の一部に旧道が残り、ノミ跡には、禅海和尚の不屈の精神が偲ばれます。
羅漢寺ふもとの御堂、禅海堂には和尚が洞門を掘るために使用したノミや槌、遺品を見ることができます。
競秀峰の景観を守った
福沢諭吉
巨峰や奇岩群が約1km キロに渡り連なる競秀峰の名は、文政元年(1818)に訪れた歴史家、頼山陽が描いた水墨画の代表作「耶馬渓図巻」によって知られるようになりました。しかし、明治の時代となって、木の乱伐によって青の洞門一帯の景観が壊れ始めるという危機が訪れます。
明治27 年(1894)、競秀峰一帯の景観を守るため、私財を投じて買収し、東城井村(現・本耶馬渓町)に寄付したのが福沢諭吉です。父が中津藩士で、大阪の蔵屋敷で生まれた諭吉は、天保6 年(1836)、5 歳の時に父の死による帰藩で中津へ移り住み、競秀峰は、幼い頃に母と訪れた思い出の地でした。
福沢諭吉還暦の年のこと。景勝の地に潜む物語です。
DATA
所在地/大分県中津市本耶馬渓町曽木
完成年/初代人道 宝暦13 年(1763)
明治40 年(1907)再掘削
設計者/禅海和尚 施工者/禅海和尚 など
管理者/大分県
文化財指定等/大分県指定史跡
<施設の形式・諸元>
素掘トンネル
延長/ 342m 幅/ 5.7m