SAGA 11
善左衛門橋・思案橋・万部島の無名橋・中の橋
佐賀市
長崎街道と城下町の
モノと人が行き交った石桁橋群
長崎街道の要の石橋
私財を投じた善左衛門橋
善左衛門橋は、佐賀市街地の西(多布施一、伊勢)、田布施川に架かる石橋です。宇野善左衛門(伊勢町)が、頻繁に流失していた土橋に替えて明和元年(1764)に私財を投じて建設し、江戸時代は長崎街道の要の一つとなっていました。
明治33年(1900)に改修されましたが、明治式の低い欄干と橋桁の上に渡した橋板の石組が現在も残っています。橋の土台には、直径約40cmの松の丸太が井の字に組まれ、その真中に石柱の橋脚が立てられています。
明治の絵図で復元された思案橋と
荷揚げ場遺構
柳町にある思案橋は、明治23年(1890)、有明海の干満で変動する水位を利用した舟運が盛んだった紺屋川に太鼓橋で架けられました。
昭和41年頃(1966 頃)に拡幅、急勾配緩和、低欄干などの改築がなされましたが、昭和58年(1983)に明治時代の絵図を参考に復元されたのが現在の橋です。擬木材による欄干×印型の抜木(ぬきぎ)、束柱(つかばしら)、手すりの笠木(かさぎ)のほか、親柱には「思案橋」の名が刻まれています。
すぐそばには江戸から明治期の荷揚げ場の遺構が保存、整備され、水運とともに長崎街道の要として重要な役割を果たしていたことがわかります。
法華経一万部の読誦が地名の由来
城内万部島の無名橋
佐賀城内(水ヶ江一丁目)にある万部島の無名橋は、橋名も竣工年月もない古い石橋で、明治末に田布施川に架けられたと云われています。
万部島という地名は、永正2年(1505)に造寺家兼(剛忠)が水ヶ江城の鬼門に当たるこの地で国家安泰、万民安楽を祈って法華経一万部の読誦を行ったことに由来しています。
城下町の雰囲気を残す小路
武士と町人の町を繋ぐ中の橋
中の橋は、片田江七小路(かたたえしちくうじ・佐賀城の東にあって東西に平行に並ぶ武家屋敷の総称)のひとつである中ノ橋小路の裏十軒川に、明治34年(1901)に架けられました。川は武家屋敷地である水ヶ江・片田江と町人町である材木町との境界で、城下町の歴史を感じさせる界隈となっています。
これらの4つの橋は、佐賀市内の石桁橋群の中で、栴檀橋に次ぐ代表的な橋となっています。
DATA
所在地/佐賀市
完成年/【善左衛門橋】明和元年(1764)、明治 33年(1900)
【思案橋】明治 23年(1890)
【万部島の無名橋】明治末
【中の橋】明治 34年(1901)
施工者/【善左衛門橋】宇野善左衛門
管理者/佐賀市
<施設の形式・諸元>
【善左衛門橋】石桁(5連) 橋長/ 8m、幅員/ 5m
【思案橋】石桁(5連) 橋長/ 12.8m、幅員/ 4m
【万部島の無名橋】石桁(3連) 橋長/ 8.5m、幅員/ 4m
【中の橋】石桁(4連) 橋長/ 8m、幅員/ 5m