最新のブラウザをご使用ください

古いブラウザにてご利用いただいた際に、部分的に機能が制限されたり、また正常にページが表示されない場合がございます。

SAGA 12

(旧)南西搦堤防

佐賀県佐賀市川副町

2 村が力をあわせて築いた
干拓潮止め堤防

工法を意味する搦
潟を搦めて堆積させ堤防固め

「搦(からみ)」とは、 有明海沿岸、とくに佐賀県に多い干拓地の地名です。堤防にしたいところに松の丸太を間隔をあけて打ち込んで支柱にし、竹の柵をつくって数年放置。潟を搦めて堆積させ、土寄せを行い、堤防の基礎を固める工法から来ています。
早津江川と八田江に挟まれた川副地区の干拓の歴史は、江戸期初頭の松土居と呼ばれる第一堤塘(ていとう・土を高く築いた堤防)線から南へ現潮受堤防の第七堤塘線まで進展し、南西搦堤防は第五堤塘線の西側を構成しています。第一堤塘から第三堤塘までは、小規模な村受干拓、第四堤塘は佐賀藩搦方の助成、第五堤塘は藩営で築堤され、時代が進むにつれ干拓面積も大きくなりました。
南西搦(54ha)の東側は無税地搦とよばれ、東の間(46ha)と西の間(57ha)に区分されています。文久3 年(1863)に築堤は完工しましたが、その後、再三の高潮で決壊。農地を手にいれるため長年かけて積み上げたものが一瞬で消え去ることもある、それが干拓の宿命でした。

ひとつひとつ手で積まれた堤防の石積み

南川副と西川副の
村民による干拓で「南西搦」

明治33 年頃(1900 年頃)南川副、西川副の村民が協力して干拓に着手。36 年(1903)に潮止めの堤防が完成し、両村の冠字をとって南西搦と名付けたといわれています。基礎は、以前に佐賀藩によって施工・放任されていたものを利用して築堤したため工事費もかなり低減できたと云われています。
これらの第五堤塘線は、耕地整理法などによって明治末年に完全に修復され、その後も干拓は大正搦、昭和搦、国造干拓へと沖合いに進展していくことになります。そして沖へ行くほど深くなることで、干拓工事は熾烈さを増していくことになるのです。

地盤沈下でゆがんだ堤防

DATA

所在地/佐賀県佐賀市川副町

完成年/【無税地搦】文久3 年(1863 年)

南西搦/明治36 年(1903 年)

施工者/【無税地搦】佐賀藩

南西搦/南川副、西川副の村民

<施設の形式・諸元>

石積堤防(布積)

延長/約700m

高さ/約4m