SAGA 01
筑後川昇開橋
福岡県大川市~佐賀県佐賀市諸富町
福岡と佐賀を結ぶ
現存する国内最古の昇降式可動橋
鉄道と船舶の通行を両立
橋桁48t が23m 昇降の圧巻
福岡県大川市と佐賀市諸富(もろどみ)町の境となる筑後川に架かる昇開橋は、昭和10年(1935)5月25日に旧国鉄佐賀線の鉄橋として開通した鉄道用可動橋です。全長は約507m。開通当時は、東洋一の規模を誇る昇開橋だったともいわれています。
大型船が自由に航行できるよう、中央の24m、自重約48tの稼働橋が、高さ30mの二つの鉄塔に沿って23mの高さまで垂直方向に昇降します。両サイドに各20tの2つのウエイトをつるし、片側8tの平衡ウェイトで水平を保ちながら巻き上げるという少ない動力で動く仕掛けになっています。昭和12年(1937)には、この模型が海を渡り、「現代生活における芸術と技術の国際博覧会」として開催されたパリ万国博覧会に出品され、たいへん好評を博しました。
片側巻上方式は
奇術師だった技師のトリック
干満差6mという有明海に注ぐ筑後川の下流では、当時、蒸気船をはじめとする年間600隻の大型船の航行は産業発展の鍵でした。それと同時に陸路の鉄道輸送も妨げないという難題から生まれたのが、昇開橋の姿です。本橋の設計に中心的役割を果たしたのは、鉄道技師の釘宮磐(鉄道省熊本建設事務所長)、仕組みそのものは、青函連絡船桟橋可動橋など、多くの可動橋を設計した鉄道省の工作局技師、坂本種芳が考えました。坂本は、アメリカの奇術雑誌から優秀作品へ贈られるスフィンクス賞を、日本人として初めて受賞したほどのアマチュア奇術師でもありました。
坂本がこの橋で使用した「片側巻上方式」は、従来の可動橋に見られなかった新たな考案。坂本は後年に、「新しいトリックで人を驚かすことが好きで、そんな心理が昇開橋設計にはたらいた」と振り返り、家族は「その可動装置が人体浮揚術の仕掛けと力学的に共通し、父は趣味の手品から得られた知恵を仕事にも生かしていた」と語っています。
干満差6mを味方に
「交通上の大革命」を支えた土木技術
完成の前年、昭和9年(1934)に、横河橋梁製作所大阪工場内で仮組み立て試運転中、9月21日に 室戸台風が襲来して倒れる という大事故が発生しましたが、 たいした損傷はなく試運転の結果は良好で、その後解体して大川市若津の組立場に輸送されます。しかし、川の中への設置は干満によって変わる水面と、厚さ16mという潟との苦闘が待ち受けていました。そこであ橋桁を陸上で組み立てた後、2隻の台船に乗せ、潮が満ちるのを待って運び、位置を合わせた後、潮が引くのを待って設置するという「ポンツーン・エレクション」という工法がとられました。こうして昭和10年(1935)5月25日、「筑後川の架橋、交通上の大革命」と新聞は開通を讃えました。
しかし、大動脈だった昇開橋にも、車社会の到来は容赦ありませんでした。昭和62年3月、佐賀線は鉄道としての役目を終え廃線となります。役目を終えた橋梁として旧建設省から廃止勧告がなされる中、地域の人びとの粘り強い活動によって保存が決まり、平成8年に「タワーブリッジ遊歩道」として蘇りました。9時から16時30分の間は可動桁が降り、橋の中央から先が繋がり対岸との行き来ができる遊歩道となります。巨大な鉄の塊である可動桁がゆっくりと着地し、そこへ一歩足を踏み出す感動は貴重な体験です。青空と赤の対比、夕陽の中のシルエット、日没から22時まで川面に映るライトアップと、魔法をかけられたように人びとを魅了してやみません。下流側には、「デレーケ導流堤」が見られます。
DATA
所在地/福岡県大川市、佐賀県佐賀市諸富町
筑後川に架かる
完成年/昭和10年(1935)完成
昭和62年(1987)廃止
平成8年(1996)歩道として整備
設計者/橋梁=稲葉権兵衛/ 旧鉄道省大臣官房研究所
昇開機構=坂本種芳/ 旧鉄道省工作局
施工者/横河橋梁製作所
管理者/筑後川昇開橋観光財団
文化財指定等/国指定重要文化財
<施設の形式・諸元>
形式/鋼鈑桁「昇降、下路」
鋼ワーレントラス「平行弦、下路」
橋長/ 506.4m
径間/ 24.20m(昇降桁)、46.80m(トラス)