SAGA 08
西芦刈水道
佐賀市大和町~小城市芦刈町
現在も農業用水路として機能する
佐賀平野の治水・利水の要
成富兵庫茂安が開削した
17kmに及ぶ水路
佐賀大和IC の北、嘉瀬川上流の川上川右岸に、佐賀藩鍋島家の家臣で領内の水利や治水を執り行った成富兵庫茂安(なりとみひょうごしげやす)が寛永2 年(1625)に開削したと云われる西芦刈水道が残っています。
全長は約17km。 西芦刈水道は、昭和に完成した川上頭首工(とうしゅこう・農業用水の取水堰、現・佐賀市大和町)から取水した水を、久保田(現・佐賀市久保田町)、牛津方面(現・小城市)へと配水する役割を担い、佐賀平野の治水、利水の要として現在も機能しています。
『直能公御年譜』付録に残る
水を巡る2 藩のせめぎ合い
この水道工事には諸説あり、芦刈町が位置する小城町では小城藩2 代藩主、鍋島直能(なおよし)に仕えた安住勘助(道古)の尽力と伝えられています。「直能公御年譜」附録には以下のように記されています。
『直能公御代、御領分芦刈数千石の所、水少なく候て、耕作難儀候に付き、安住勘助存立にて川上河より水道を掘り申すべくと、水上より夜なく游ぎ、流れを試み候こと七夜ほどにして、水行を考へ今の水分けの所より水道を掘り候へば、芦刈に水懸り不足これなきと積り置き候由、佐賀の方へ下り候地形は少々高くこれあり、小城の方へ低くこれあり候に付き、佐賀役々申談じ、佐賀へ七部通り、小城には三部通り定めこれあり、右の通に候へば、芦刈の水不足これなく、其上は用なしとの積り也、其後勘助頭取にて只今の芦刈水道を掘申候、しかるところ元禄13 年頃、佐賀の方より石荒籠を入れ候に付き、小城の水行細く相成候故、川口取合始まり、宝永・享保・元文の頃に至っても色々取合むつかしく相成候へ共、近世淀女ケ渕の上なる石荒籠出来候より、却て小城の方への水行に障これなく、川口取合の論も相止み候也。』(出典 大和町史)
石荒籠(いしあらこ)とは、石を積んで川の流れを調整するでっぱりのことです。
勘助の尽力の証とされるこの史料には、当時の水を巡り佐賀藩と小城藩がせめぎ合う苦労が滲んでいます。
DATA
所在地/佐賀市大和町~小城市芦刈町
完成年/寛永 2 年(1625)
設計者・施工者/成富兵庫茂安
管理者/農林水産省九州農政局佐賀土地改良区
<施設の形式・諸元>
水路
延長/約 17 ㎞ 幅/約 3.5 ~ 7.5m